1. HOME
  2. ブログ
  3. 2026年4月12日 礼拝説教 「大事な子ども」

2026年4月12日 礼拝説教 「大事な子ども」

旧約聖書 イザヤ書 43章1~7節
新約聖書 マタイによる福音書 18章1~9節
説教題 「大事な子ども」
説教者 後登雅博 牧師

マタイ18:1〜9 「大事な子ども」 イザヤ43:1〜7  2026.4.12

 先週はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝を献げることができました。久しぶりに顔を見せてくださった方々が多くて、本当に嬉しい時となりました。その前の週は、棕櫚の主日でした。キリストがエルサレムに入城される箇所を読みました。二週続けてマタイによる福音書から離れておりましたが、今日からマタイによる福音書をまた続けて読んでいきます。

 マタイによる福音書18章に入ります。ここには教会のことが語られていると言われます。教会とは建物のことであり、ここに集められている私たちです。教会とはどういうところででしょうか。私たちが教会であるとはどう言うことでしょうか。御言葉に聞いていきましょう。

 さて、今日の箇所には「教会」という言葉は出てきません。代わりに「天の国」という表現があります。地上にある教会は「天の国」を指し示しているはずです。「指し示しているはず」と言いますのは、地上の教会は「天の国」のようには完全では無いからです。すなわち、私たちが地上にある間は、どうしても罪を抱えているからです。しかしそれでも教会こそが、地上においては最も鮮やかに「天の国」を指し示しています。

 今日の箇所、キリストと弟子たちの対話から始まっています。:1「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。」誰が偉いのかという問いは、私たちの心にも浮かんでくる問いではないでしょうか。兎角世間は競争社会です。会社でも学校でも、自分が集団全体のどこら辺に位置しているのかと、つい考えてしまいます。会社の社長であったとしても、誰が偉いのかと考えてしまうことがあるのではないでしょうか。社長は会社のトップでしょうが、よその会社と比べて自分の会社は優れているだろうか、とお考えになるのではないでしょうか。

 弟子たちの問いは、決して子どもっぽい問いではありません。人として誰もが考えることのある、根源的な問いです。しかしここに、落とし穴のようなものが空いています。それは、キリストの答えの中に示されています。:3「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」「天の国で誰が偉いのでしょうか」と問う前に、「誰が天の国に入れるのでしょうか」と問う必要があったのです。

 キリストの答えを聞いた後で、弟子たちの問いを思います。すると、自分たちが天の国に入っているつもりで聞いていることが分かります。自分達は天の国に入っています。ですから、その中でも一番偉い者は誰でしょうか。どうすれば、天の国で偉い者と見做されるようになりますか。そのように問うていたのです。

 「弟子たちは驕り高ぶっています」などと言うつもりはありません。むしろ、自分達は天の国に入れると弟子たちが信じていたように、教会に集められている私たちも信じなければなりません。何しろ教会こそ、地上において最も鮮やかに天の国を指し示しているからです。ここで言う教会とは、建物としての教会ではありません。キリストの御名のもとに呼び集められている私たち、一人ひとりのことです。

 私たちは礼拝を献げるために呼び集められています。誰が私たちを呼び集めておられますか。それは、父、子、聖霊なる神ではありませんか。神によって呼び集められているところ。そこは天の国であり、神の支配のあるところです。こうして、神の御名によって集まる地上の教会は、神の国に近いと言って良いのです。神が私たちを神の国へと招いておられると言って良いのです。

 神の招きを受けて、私たちは神の国に入れていただきます。このことを踏まえつつ、キリストの言葉をさらに思い巡らします。もう一度:3です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」ここで言われているのは、単純に言えば天の国に入るための条件のようなことです。子どものようになることが、神の国に入る条件と言えます。

 このことについて、殊更に言い逆らううつもりはありません。しかしながら、少しばかり申しておきたいことがあります。「心を入れ替えて」と訳されていますが、ギリシア語の原典には「心を」という言葉はありません。そして「入れ替えて」と訳されているのは、「振り返る」という単語です。この「振り返る」という言葉に、「悔い改める」というニュアンスを読むので、「心を入れ替えて」と訳されています。ちなみに、他の聖書がどのように翻訳しているかと調べましたら、「心」という言葉を補って訳している方が多かったです。ですから、一般に認められているのと違うことはあまり言わない方が良いでしょう。

 と言いながら、思うことがあります。イエス・キリストの与えてくださる救いはいつも、私たちの行いよりも先にあることです。私たちには、自分の心を入れ替える必要があります。罪の悔い改めと呼ばれることが必要です。しかし、そのような方向転換ができるのは、神の招き、神の導きを受けるからです。私たちが「心を入れ替え」たら救われるというよりは、神の救いが私たちの心を新しく変えてくださるのです。

 そして「子供のようにならなければ」と言われていますが、「子どもには罪が無い」と考えられているのではありません。子どものようになるのですが、これは「心を入れ替えて」罪の無い子どものようになるというのではありません。

 「子供のようにならなければ」で意図されているのは、:4にありますように、自分を低くすることです。すなわち、「子供のようにならなければ」とは、自分が無力であると認めることです。一番偉い者になることと、正反対のことです。

 キリストと弟子が対話の場面しています。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と弟子たちが問いかけました。これに答えるために、キリストは一人の子どもを彼らの間に立たせられました。そして言われます。「振り返って、子どものようになりなさい。」大人である弟子たちに、自分が子どもであった頃を振り返らせておられます。あの頃の子どものように、もう一度なってみなさい、と言われたのです。

 ここで、キリストとニコデモの対話を思い起こしてくださると良いのです。ヨハネによる福音書3章です。ファリサイ派でユダヤ人の議員であったニコデモが、キリストを訪ねてやってきました。ファリサイ派で議員というのですから、ニコデモは偉い人の代表です。キリストはニコデモに言われました。ヨハネによる福音書3:3「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」そう言われてニコデモは問い返します。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」もちろん、ニコデモが考えたようなことはできません。ニコデモとの対話と同じことが、今日の箇所でも言われているのです。

 歳を取った私たちが、物理的に子どもに戻ることはできません。これと同じことです。私たちが神の国に入ろうと思えば、自分の力では不可能なのです。ですから、イエス・キリストの救いによって、聖霊の働きを受けて、私たちは新しく生まれ変わる必要があります。神が私たちを水と霊によって新たに生まれさせてくださり、私たちは神の国に入るのです。人にはできませんが、神にはなんでもできるのです。

 地上の教会に集まり、私たちが神を礼拝します。その時、私たち一人ひとりがキリストの体を建て上げる一つ一つの部分となっています。ここに、地上において神の国が出現しています。これは人間の技ではなく、神の御業です。私たち自身には罪があります。私たちは罪の無い子どもというのではなく、力無き子どもです。しかし、この罪のある子ども達は、確かに神の大事な子どもなのです。私たちが自分の罪を自覚する時、その時こそ、私たちは神の子どもとされています。そして確かに、神の国に入る者とされています。

 天の国に入るならば、もはや競争はありません。天の国で誰が偉いかと言えば、全ての人が偉いのです。全ての人が、神の子どもだからです。父なる神の愛を受けている神の子どもです。父なる神は、御自身の子どもたちをどれほど大事にしておられることでしょう。それは、神の御子キリストを送り、キリストの命を持って私たちの身代わりとするほどです。そのことは今日、イザヤ書43:4に書いてありました。私たちは神の愛を受けて、キリストの命に替わるほどのものとされています。神の圧倒的な愛の熱量を持って、私たちは神の子どもとされています。

 この事実を踏まえて、キリストの言葉の続きを読んでいきましょう。:6「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」キリストの言葉はまだまだ続きます。かなり激しい言葉です。どうしてこれほど厳しいことを言われるのか、もうお分かりのはずです。キリストを信じる小さな者を、神は大事な子ども達と考えておられるからです。キリストの言葉の激しさは、私たちを思う神の愛の激しさです。

 :6以下の言葉は、私たちをつまずかせる者に対する警告の言葉です。ところで、これらの言葉は警告の言葉ですが、最後通告のような断罪の言葉ではありません。いや、:8、9には「永遠の火」とか「火の地獄」とありますから、キリストは最後の審判のことを考えておられるのでしょう。しかし、:8、9で言われる中心は、命に与かるためにはどうすれば良いか、です。すなわち、つまずきとなるものを取り除きなさい、です。

 現実には、手足や目を捨てたところで、つまずきを取り除けるとは思えません。手足や目が勝手に一人で罪を犯すのではないからです。

 :6以下の警告は、神の子どもをつまずかせる者に向けられた言葉です。私たちが神の子どもとされていますが、私たちにも向けられている言葉として聞くべきです。教会の中にいる私たちが、誰かのつまずきとなることもあるからです。

 教会とは、地上において最も鮮やかに神の国を示すところです。それでも、教会に集められている私たちは罪のない子どもではなく、無力な子どもに過ぎないのです。つまり、自分の力だけでは、神の戒めを完全に守ることができません。神の愛を受けていますが、神の掟を守れないことがあります。そう思えば、まことに憐れむべき者であると言わざるを得ません。だからこそ、キリストが私たちに向かって語っておられます。断罪の言葉としてではなく、警告の言葉として語っておられます。「永遠の火」に投げ込まれてはいけない。「火の地獄」に投げ込まれてはいけない。そうではなく、ちゃんと命に与かるようにしなさい。そのために、あなたに代わって私が命を差し出したではないか、と言われます。

 私は「永遠の火」に投げ込まれても仕方ない者である。そのように思わされている小さな子どものために、キリストの救いがあるのです。教会とは、自らの小さなことを受け止める私たちの集まりです。教会が地上にある間は、弱さを抱えています。無力な私たちの集まりだからです。しかしこの私たちは、キリストによって命へと移された神の大事な子どもです。キリストが私たちを受け入れてくださいました。ですから私たちも、キリストを受け入れることができるのです。こうしてキリストと私たちとは、確かに結び合わされているのです。

関連記事