2026年4月26日 礼拝説教 「罪びとを赦す」
旧約聖書 申命記 19章15節
新約聖書 マタイによる福音書 18章15~20節
説教題 「罪びとを赦す」
説教者 後登雅博 牧師
マタイ18:15〜20 「罪びとを赦す」 申命記19:15 2026.4.26
マタイによる福音書18章は、キリストが教会について教えておられる箇所です。そのように申し上げて18章に入りましたが、ようやく今日の箇所に「教会」という単語が出てきました。今日の箇所では、教会に与えられている権威について語られています。それを一言で言えば、罪を裁くこと、と言えます。
罪を裁くと言います時、必ずしも罪に定めることだけを言うのではありません。罪を赦すことも「裁く」と言えます。罪があるのか無いのか、判断を下すのが裁くことだからです。地上の教会である私たちには、驚くような権威が与えられていることになります。
さて、私たちに罪を裁く権威が与えられていると言われて、皆様はどのような思いがするでしょうか。恐らく、多くの方が責任の重さを感じられるのではないでしょうか。あるいは、そのような権威を持たされて良いのでしょうか、と思われるかも知れません。かく言う私もそうです。
私たちの社会で普段、裁きがなされるのは裁判所です。そこには裁判官、検察官、弁護士といった方々がおられます。難しい勉強をたくさんして、難関の試験に合格して、ようやくそれぞれの職務につかれます。そのような方々のことを思う時に、私たちに人の罪を裁く権威があると言われても、本当かなあと戸惑うばかりです。何と言いましても、教会に来ています私たちには、人の罪を裁くことなどとてもできそうにないと思える理由があるからです。それは、私たち自身が罪人であることです。もちろん、牧師も例外ではありません。いや牧師だからこそ、罪が深いということさえあります。ヤコブの手紙に書いてあります。ヤコブの手紙3:1「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」誰かを裁くどころではありません。自分が真っ先に裁かれて然るべき者です。主の日が近づくにつれて、恐れがやってきます。果たして御言葉を語ることができるだろうか、と思わされることしばしばだからです。
そのような私たちに、しかしキリストは言われます。:18「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「つなぐこと」は入ることを禁じることであり、罪に定めることです。反対に「解くこと」は、罪を赦すことです。
地上の教会に、キリストは罪を裁く権威をお与えになっています。神の国の門の開け閉めが任されています。どうしてそのようなことになるのでしょうか。それは、キリストの約束が私たちに与えられているからです。:20です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」キリストの名によって集まるところに、キリストがおられます。キリストが共におられるという約束の故に、天の父は私たちの願いを聞いてくださいます。天の神が、私たちの祈りを聞いてくださいます。ですから、私たちには神の国が開かれていると言って良いのです。こうして教会には、驚くような権威が与えられています。
そこで今日は、改めて御言葉から教えられたいのです。地上の教会はどのようであるべきか、です。特に、私たち高蔵寺教会はどうあるべきか、です。そして先に、私が御言葉から思わされたことを申し上げておくなら、それが今日の説教題です。「罪びとを赦す」これが高蔵寺教会のあるべき姿であると思っています。
教会には、誰かを罪に定める権威が与えられています。しかし、私たちの高蔵寺教会は、何よりも人を赦す教会でありたいと願っています。「願っています」と言いましたように、これは私の願いです。
このように言いますと、皆様の中には違う考えを持つ方もあるかも知れません。罪を裁くとは、人の罪を赦すことばかりではなく、人を罪に定めることも含むからです。次週の箇所ですが、キリストは「七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。無限に赦されるとするなら、人は真実に罪を悔いることをしなくなる、という意見もあります。そういう主張にも一理あると思います。
そのように思いますので、キリストが言われることを真剣に受け止める必要があります。キリストは言われます。:15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」キリストは罪を犯した人の罪を指摘し、罪を悔い改めて赦しを得させなさいと言われます。その際、最初は一人だけで行きます。罪を犯した人への配慮です。罪があるのは明らかですが、あくまでも罪の赦しを得させるためです。教会には罪を赦す権威が与えられています。ここで言う教会とは、教会のメンバーの誰か一人です。教会に連なる全ての人が出ていかなくても、教会と表現して良いのです。その人は、主に遣わされて出ていくからです。
最初は一人で行きます。しかし上手くいかなかったら、他に誰かを連れて行きます。なんとかして、兄弟姉妹を取り戻すためです。この時点で、罪のことはいくらか公のことになっているでしょう。今日は申命記を読みました。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」最初は個人レベルの罪の裁きのはずでしたが、それでは収まらないことがあるのです。罪を犯した人の権利も守られなければなりません。そして何よりも、その人の救いが失われないようにしなければなりません。二人または三人で出かけていくのも、やはり真実な赦しを与えるためです。
:17「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」これは最終段階と言えるでしょうか。異邦人か徴税人と同じように見なしなさいとあります。これは誠に厳しいことと言わなければなりません。
教会との交わりを相手が望まないのです。ですから、教会としてはもう打つ手がないということです。しかしながら、それでもまだ終わりではないと言えます。イエス・キリストですが、いわゆる罪人と呼ばれる人たちと親しく交わりを持たれたではありませんか。キリストの救いは、ただユダヤ人だけの救いではありません。キリストは善良な人々だけを招いておられるのではありません。そもそも、教会に連なる私たちにも罪があります。教会が罪を裁くと言うとき、自分のことを棚に上げて誰かの罪を扱うのではありません。あくまでも、自分の罪が赦されていることを心に留めます。そうして、自分の罪が赦されていることを思う時に、兄弟の罪もキリストが赦してくださっていることを思います。キリストは「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われましたが、これは自分自身にも当てはまることです。そしてキリストこそは、罪人の近くにいてくださるのです。
地上の教会には罪を裁く権威が与えられていると言いました。私たちにはつないだり、解いたりできると言われています。その責任の重さに耐えかねる思いがいたします。そのように恐れ慄くのは正しいことです。そこで、改めて思います。私たちは本当に、つないだり、解いたりできるのでしょうか。
イエス・キリストには罪を赦す権威があります。キリストは神だからです。私たちがキリストによって遣わされて行くとしても、私たちが自分の考え、自分の判断で誰かをつないだり、解いたりはできません。私たちにできるのは、キリストを伝えるだけです。すなわち、罪の赦しがキリストにあることを証しするだけです。そして私たちは、このことのために心を合わせて祈るだけです。自分自身が、罪を犯す危険を依然として抱えているからです。
今日の箇所では、罪を犯した兄弟姉妹のことが語られています。キリストは、失われた兄弟姉妹を得るために語られます。その兄弟とは、私たちのことです。罪を犯してしまう私たちのところへ、一人キリストが尋ねて来てくださいます。そしてその罪を告白し、キリストから罪の赦しを受け取りなさいと言われます。このキリストが、私たちと心を一つにして天の父に向かって祈ってくださいます。キリストが、私たちのために罪の赦しを祈ってくださいます。いやキリストは祈るだけではありません。私たちのために、実際に身代わりとして十字架にかかられました。
教会とは、キリストによって罪が赦されたことを信じる人の集まりです。私たちはもう、罪の縄目から解かれています。だからこそ、私たちが集まるところにはキリストがおられます。そう信じて良いのです。罪が赦された紳士淑女の集まりなので、キリストが共にいてくださるというのではありません。地上にあってはまだ、おぼつかない者であると自覚しています。「あなたの罪は赦されている」と言われても、「果たして本当でしょうか」と思うことがあるのです。自分の罪は、兄弟姉妹の目には隠されているからです。しかし自分では、自らの罪に恐れ慄いているからです。ですから、兄弟姉妹と共に祈ることを必要としています。キリストの執り成しを必要としています。キリストが、私たちの真ん中に立ってくださらないと、すぐに崩れてしまうことを弁えています。
キリストは、自分自身の弱さを知り、罪に悩む人と共にいてくださいます。自分のことを罪人であると見なしている人に、キリストの眼差しは暖かいのです。イエス・キリストは丈夫な人ではなく、罪人を招くために来られたからです。罪人を赦すためにキリストが来られました。このことを信じて良いのです。私たちを救うために、キリストの命がかけられているからです。このキリストを私たちは証しします。このキリストによって、私たちは隣人を得るために遣わされます。キリストに遣わされる故に、私たちには大いなる権威が委ねられているのです。