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2026年5月24日(ペンテコステ記念礼拝)礼拝説教 「神の子とされる」

旧約聖書 ホセア書 2章1節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章12~17節
説教題「神の子とされる」
説教者後登雅博牧師

ローマ8:12〜17 「神の子とされる」 ホセア書2:1 2026.5.24  ペンテコステ

 本日はペンテコステ記念礼拝を献げています。ペンテコステの元となるのは、七週祭と呼ばれるユダヤの収穫感謝祭です。ペンテコステとはギリシア語で「50番目」という意味です。過ぎ越しの祭りから七週間後なので七週祭、すなわち50日目でペンテコステです。
 キリストが十字架にかけられたのは、過ぎ越しの祭りの時でした。その後復活されたキリストは、弟子たちと40日過ごされます。キリストは弟子たちに「別の助け主を送る」と約束されたのでした。使徒言行録1:4〜5「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 復活したキリストは天へと昇っていかれます。後に残された弟子たちが集まり祈っています。するとペンテコステの日、弟子たちに聖霊が注がれたのでした。キリストがクリスマスに誕生されたように、ペンテコステに聖霊が注がれました。そして教会が誕生しました。教会でペンテコステと言えば、クリスマス、イースターに並ぶ祝いの日となるのです。
 今日はペンテコステなので、聖霊について書いてある箇所を読みました。ところで今日は、聖霊が注がれたことについて語ろうというのではありません。聖霊降臨についてではなく、聖霊が注がれた者はどのようになるのか、を御言葉から聞き取ることにします。すでに聖霊が私たちに注がれている、と考えるからです。
 ローマの信徒への手紙を書いたパウロは「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務があります」と書きました。「義務」と言われますと、私などはちょっとイヤな気持ちになったりしますが、皆さんはどうでしょうか。
 でもしかし、私たちが読んでいるのは聖書です。義務というのも今日の文脈では、実は喜ばしいものとなります。改めて:12です。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」聖霊を受けた人は、「もはや肉に対する義務からは解放されている」と言われます。肉に従って生きるのではなく、霊に従って生きるようになるからです。私たちの義務というのは、霊に従って生きることです。
 では、肉や霊とは何のことでしょうか。パウロが「肉」という表現を使う時、しばしば否定的な意味を含んでいます。パウロの言う「肉」とは、生まれながらの人間という意味だからです。そう言って良ければ、朽ちていく存在のことです。
 朽ちていく肉に対比されるのが霊です。「霊に従って生きる」と言えば、朽ちることなく新しくされた者として生きることです。すなわち、キリストによる救いを受けた存在です。永遠の命を生きるようになっています。霊によって生きる義務とは、私たちが果たすことでありながら、聖霊の助けによって果たされます。聖霊の助けがありますから、私たちの力が足りないとしても、安心して良いのです。どういうことでしょうか。
 キリストを信じていても、地上にある私たちの肉体は確かに衰えていきます。そしてついには、この肉体も動かなくる時が来ます。しかしそれでも、霊において新しく生きる者となった人は、肉体が終わりの時を迎えても、それが終わりではありません。むしろその時こそ、霊に生きることの真骨頂と言っても良いかもしれません。古くなっていく肉体を脱ぎ捨てることになるからです。死の時を迎えて、私たちは決して消えることのない神の国に移されるからです。霊に従って生きるとは、私たちの目指すところがハッキリと示されていることです。そして、最後に到達するところが保証されていることです。
 実際には、神の国に入るまでの道のりには紆余曲折があるでしょう。何の迷いもなく真っ直ぐに進む、というわけにはいかないこともあるでしょう。しかしどのような歩み方、どのような道を通るとしても、ゴールは変わりません。そして何よりも、ゴールに到達することは確実です。ですから、安心して良いのです。
 さてここで、申し上げておかなければならないことがあります。今日の箇所で「肉」と言えば、霊と対照的なものとして扱われています。肉は滅びるもの、霊は永続するものと考えてくださって良いのです。しかしながら、私たちの信仰では「肉」もまた、新しくされます。イエス・キリストの復活を考えてくだされば良いのです。十字架にかけられたキリストは、肉体を持って復活されました。すなわち、復活のキリストには肉も骨もあります(ルカ24:39)。キリストを信じるとは、魂の救いだけを言うのではありません。霊肉共なる救いです。
 私たちの身体は古くなっていきますし、やがては朽ちることでしょう。しかし身体が終わりを迎えるのは、新しくなるためです。ここにも、霊に従って生きる希望があります。神が与えてくださる救いは抽象的なことではありません。魂だけの救いというようなことではなく、肉体も含む実体的な救いです。完全な救いです。そもそも私たちの体、それは神に造られたからです。神はこの私たちの全存在を、すっかり救いに入れてしまわれます。
 今日の箇所で言われているのは、私たちを造られた神の御心に叶う生活を送るようになることです。神がアダムとエヴァを造られた時、彼らが死ぬことは神の御心ではありませんでした。それなのに、彼らが肉に従ったために、死ぬ者となってしまいました。これが私たちの現実でもあります。その現実をもう一度、神の御心に叶うものへと取り戻すために、キリストによる罪の赦し、永遠の命が与えられるのです。そのために、聖霊が私たちを新しく生きるようにして下さいます。神によって創造された私たちは、神の霊によってもうひとたび新しく創造されます。キリストにある救いは、再創造とも言われるのです。
 :14「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」神の御子であるキリストも、確かに死を経験されました。キリストは、死の苦しみをよく知っておられる御方です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばなければならなかったほどです。キリストこそが、最も死の苦しみを深く知っておられる御方です。そして肉に従って生きる時、私たちにとって死とは何と望みのないことかを、この御方はよく知っておられます。だからこそ、私たちが望みなく生きるようなことがないように、死の力を打ち砕いて下さいました。神の御子、イエス・キリストは死をも乗り越える御方です。キリストはまことの神ですから、この方が死の力に捕えられたままであるはずがないのです。イエス・キリストの故に、神の子とされた人はもはや滅びることはありません。キリストに働きかけた神の力が、聖霊を通して、キリストを信じる人にも及ぶからです。
 それでは、どうして私たちが神の子であると言えるのでしょうか。:15「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」「アッバ」とは、アラム語で「父」を意味する言葉であると説明されてきました。しかし最近では、アラム語でもないと言われることがあります。「アッバ」とは、赤ん坊が親を呼ぶ時に出てくる音を表記したものと言われます。日本でも赤ん坊が言葉を発するようになると「あばば」などと言います。
 :15で言われているのは、私たちが父なる神を呼ぶことです。つまり、私たちの祈りです。神に向かう私たちの祈りが、親に向かう赤ん坊のように、神へと思いが向けられていれば良いのです。「根源的に」と言って良いでしょう。切に神を求める者とされるのです。聖霊なる神が、私たちの霊や魂に働きかけて下さいます。神に造られながら、神から離れてしまっていた私たちを、再び神の子どもとして下さいました。
 神が私たちに働きかけて、神を呼ぶ者として下さいます。これは、子育てをする親のことを考えてくだされば分かるでしょう。人間の赤ん坊は、誰かの助けがなければ生きることができません。ですから親は手を掛け、愛情をかけて世話をします。赤ん坊はそうして親から世話を受けているうちに、目の前の人が親であるとわかるようになります。私たちも神の働きかけを受けて、神を認識するようになります。
 :16「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」聖霊なる神が、私たちが神の子どもであることの保証です。聖霊も神であり、聖なる霊と言うぐらいですから、私たちには見ることができません。一方で私たちには肉体があるので、見えないものや触れることができないものについて受け止めにくいところがあります。私たちがどこで聖霊を受けているとわかるかと言えば、祈りです。聖霊が働かなければ私たちは祈ることもできず、ましてキリストを救い主と信じることもできません。ですから、キリストの御名によって祈ることができるとするなら、キリストを救い主と信じるなら、紛れもなく聖霊が働いていると信じるべきです。聖霊が私たちに働きかけて祈りを与え、キリストを告白させて下さいます。そしてその告白を聖霊が祝福して、確かに私たちが霊に従って生きるようにして下さいます。
 私たちが信じる父、子、聖霊なる神は全知全能です。そのため本来は、私たちの力というものを神は必要とはされません。例えば、キリストの復活ですが、人間の働きが入り込む余地は全くありません。私たちが何かをして、キリストの復活を手助けするようなことはありません。ところが聖霊は、私たち人間の働きも用いられます。なぜなら、聖霊は私たちの中に住まわれるからです。私たちを通して、私たちを用いて、聖霊は働かれます。聖霊を受けても、私たちが別人になるのではありませんし、聖霊に乗っ取られるのでもありません。聖霊は私たちを尊重しつつ、私たちを導いて、神の善き御業をなされます。聖霊において、神が私たちと共におられることが最も確かになるとも言えます。
 父、子、聖霊なる神におかれましては、私たちを神の子どもとしてくださっていることは揺るぎません。しかし私たちの側では、揺らぐことがあります。地上において、肉を持って生きているからです。そこでパウロは最後に書きました。:17「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」神の子どもとされた私たちは、キリストと共同の相続人となっています。ですから、地上においては、苦しむこともあるのです。キリストでさえ、地上にある間は苦しい思いをされたのです。だからこそ、私たちも「アッバ、父よ」と神を呼びましょう。祈りが呻き声となるとしても、神は受け止めて下さるからです。神の子どもである私たちは、すっかり神の救いに入れられているからです。 

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