Q&A

教会Q&A

A:どなたでも歓迎します。クリスチャンでない方も来ています。

A:聖書に記された神、イエス・キリストの父なる神を崇めることです。神への讃美・聖書の説教・祈り・献金を奉げることで、礼拝は構成されます。

A:聖書や讃美歌は受付でお貸しします。持ち物の心配は要りません。

A:普段着ている服装で大丈夫です。

A:予約の必要はありません。開始の10分前くらいに来ていただけると、落ち着いてご出席いただけるかと思います。
  開始してからでも、途中でお帰りいただいても大丈夫です。無理なお引止めはしません。

A:参加費は必要ありません。礼拝の終盤に献金の袋を持ったものが回ってきますが、やり過ごしていただいてかまいません。

A:献金とは、神に感謝して奉げられるものです。これは、教会の入場料ではありませんし、信者で奉げるお賽銭のような物でもありません。献金は強制ではありませんので、意味の分からない方は奉げられなくても構いません。

A:歌えなくても大丈夫です。歌詞を見ながら聞いているだけでも大丈夫です。もしかしたら知っている曲があるかもしれません。

Q:聖書は誰が書きましたか。

A:聖書は1600年以上もかけて、約40人もの人によって書かれました。これだけの年数をかけて、多くの人の手によって書かれたものが1冊にまとめられました。とすれば、その内容は種々雑多なものになりそうですが、そうではありません。その内容は、神がどれほど私たちを愛しておられるか、です。聖書の内容の一貫性を考える時に、神が人を通して書かせた、といえます。つまり、聖書は誰が書きましたかと問われるなら、神が聖書の著者である、と答えるべきです。聖書は神の言葉であるからこそ、時代や国を超えて、現代にまで伝えられて来たというべきです。

Q:説教とは何ですか。

A:説教とは、神の言葉である聖書を説き明かすことです。聖書は、歴史や地域、民族を超えて変わることのない真理です。説教とは、聖書に記された神の真理を説教者が説き明かし、それを聴く会衆がいて成立します。説教者も会衆も、共に神の言葉の説教を聴くことで、神から励ましと慰めを得るのです。そうして、新たに力強く歩み出すのです。

 ただ、第三日曜日には東日本大震災のための献金を行っています。この時の献金は、震災からの復興のために活動している団体に奉げます。趣旨を理解して奉げて下さると感謝です。

Q:祈りとは何ですか。

A:祈りとは、イエス・キリストによって、父なる神に感謝や願いを申し上げることです。祈りは、「イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン」という文言で終わります。アーメンとは、ヘブライ語で「その通り」とか「真実」という意味です。「真実な思いで祈りました」という意味で、アーメンと唱えます。また、他の人の祈りに対しても、心を合わせて「アーメン」と一緒に唱えます。

Q:洗礼とは何ですか。

A:洗礼とは、イエス・キリストを救い主と信じ、告白した人が受けるキリスト教の大事な儀式です。洗礼は、一生に一度しか受けません。ちなみに、プロテスタント教会では、クリスチャンネームはつけません。

Q:聖餐式とは何ですか。

A:聖餐式は、洗礼を受けた人がパンとぶどう酒(ぶどうジュース)に与ることで、イエス・キリストの十字架を思い起こす大事な儀式です。聖餐式のパンとぶどう酒は、それぞれキリストの肉体と血を表わしています。すなわち、キリストが十字架の上で肉を裂かれ、血を流されたことを思い起こすのです。キリストの十字架によって、私の罪が裁かれたと信じるのです。ですから、まだキリストを信じていない人、洗礼を受けていない人は聖餐式のパンとぶどう酒に与ることができません。イエス・キリストを信じる者にとりまして、聖餐式のパンとぶどう酒は、キリストの十字架の苦しみそのものを表わしているのです。どうぞこのことをご理解くださり、キリストを信じる人がパンとぶどう酒に与る姿を見てください。

Q:十字架とは何ですか。

A:十字架とは、私の罪の身代わりとして、イエス・キリストが罪を背負って死なれたことです。人の罪は、イエス・キリストが十字架の死を持って償わなければならないほどに、重いのです。

Q:罪とは何ですか。

A:罪とは、神に敵対することです。人の心に浮かぶ悪しき思い、現実の苦しみや悲惨などは、究極的には罪に由来すると考えます。

Q:復活とは何ですか。

A:人は罪の裁きを受けなければなりません。人が裁きを受けるなら、死で終わります。しかし罪の裁きはイエス・キリストが、私に代わって受けてくださいました。十字架に死なれたキリストは、三日目に死からよみがえられました。これが復活です。キリストの復活により、罪と死の力は打ち破られました。つまり、イエス・キリストを信じる時に、私たちは自分の罪の裁きの終わっていること、そして罪の力である死からも解放されていると信じることができます。キリストは言われます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 

 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

    (ヨハネによる福音書11章25−26節)

 キリストが死なれたことだけでなく、復活されたことも信じるならば、もはやその人を罪も死も支配することはできません。その人は、キリストが復活されたように、復活するからです。キリスト者は、十字架と復活のキリストを信じて、自分も同じように復活すると信じています。