2026年5月10日 礼拝説教 「愛を結ぶ」
旧約聖書 創世記 2章21~25節
新約聖書 マタイによる福音書 19章1~12節
説教題 「愛を結ぶ」
説教者 後登雅博 牧師
マタイ19:1〜12 「愛を結ぶ」 創世記2:21〜25 2026.5.10
皆さんとマタイによる福音書を読み続けてきました。今日は19章に入ります。今日の箇所は、結婚について記されています。時代の変化と共に、私たちの結婚観も変わってきているはずです。昔の日本であれば、結婚は家と家の結び付きと考えられていました。現代ではもう少し、個人同士の結び付きと考えられているはずです。また、私が子どもの頃の日本では、どちらかと言えば離婚は珍しいことでした。しかし現代では、それほど珍しいことではありません。現代では、離婚の正当性が認められてきています。つまり、離婚が決して当事者のわがままではないことが分かってきました。別れた方が良いと思う、深刻な問題のある場合があるのです。昔ならひたすら耐えるばかりでしたが、当事者の人権を守るべきという風潮に変わってきたのです。
結婚観に限りません。様々なことに対して、私たちの価値観が変わってきています。何を大事にすべきかという感覚が、昔と今では違っています。昔と今とどちらが良いか、と比べてもあまり意味がありません。変わりゆく時代の中でどのように生きるかとは、一人一人が考える課題だからです。そして一人一人で、答えが違います。一人一人の価値観も違うからです。誰かの人生ではなく、自分の人生を生きるのです。自分らしく生きられるように、自分が大切にしたいものを自分で選び取って良いのです。
時代は変わり、価値観も様々に変化していきます。そうであれば、現代を生きる私たちが聖書を読むことには、どのような意味があるのでしょうか。聖書の言葉は昔から少しも変わりません。果たして聖書は、移り変わっていく時代に対応できるのでしょうか。二千年前のイスラエルの結婚観と私たちの結婚観では全く違います。私たちは今日の箇所から、何を受け取れば良いのでしょうか。
先に結論めいたことを申しますなら、今日の箇所から結婚のあり方について教えられるのではありません。結婚というテーマに限定されない、「どのように生きるべきか」について教えられるのです。どのように生きるべきかとは、時代や地域が変わっても大きく変わることはありません。人間として、何を大切にすべきかという根源的なことだからです。時代や民族が変わっても、大事にすべきことを教えるために、変わることのない聖書の言葉が必要なのです。どのように生きるべきかを考えるならば、結婚している方もしていない方も、全ての人が聞くべき言葉がここにあるのです。
:3「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った。」ファリサイ派といえば、キリストを目の敵にしている人たちです。彼らはキリストを試そうとして質問しました。二千年前のイスラエルです。現代の私たちとは価値観が違います。イスラエルは男性中心社会であり、女性の権利は著しく低いです。未婚の女性は父親の所有物。結婚した女性は夫の所有物と考えられていました。そして結婚しても、夫の気持ち一つで離縁させられることがまかり通っていました。離婚しても良い理由を妻の浮気だけと考えるか、それとも本当に些細な理由でも離婚を認めるか、という違いがあっただけです。いずれにしても、夫が離縁するといえば従うしかありませんでした。逆に妻からは、どれほど酷い夫であっても離婚を切り出すことはできませんでした。そのような社会の現実を踏まえて、ファリサイ派は質問したのです。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」イスラエル人にとって律法とは、まさに神の言葉です。キリストが律法に反するような答えをしたら訴えてやろう、と待ち構えています。
キリストの答えは明快でした。:4〜5「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」キリストは「律法に適っているでしょうか」と問われましたので、律法を持ってお答えになりました。
キリストの答えは古くて新しい教えと言えるでしょう。旧約聖書の創世記に書いてあることを言われたのですから、古い教えです。そして、ここに込められている神の御心を新たに解き明かしてくださったので、新しい教えです。:6「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」神が結び合わされたものを人が離してはならない。これがキリストの新しい教えです。結婚は、実に神の導きによってなされるというのです。キリストが言われるのは「結婚にも信仰が必要である」ということです。そしてこれは何も、結婚に限定されることではありません。キリストが言われることは、「神が私たちの人生を導いておられる」ということだからです。
神が私たちを結び合わせてくださいます。私たちが出会う人々は、神の導きの中で巡り合っています。そして、人との関わりだけではありません。私たちが生きていく上で必要なこと全てが、神の取り扱いの中にあることです。神が私たちの人生に責任を持って導いてくださる、と信じることが必要です。人生には、様々なことが起こるからです。喜ばしいことがあれば、悲しいこともあるのです。それらの出来事の背後に、神の御手のあることを信じますか、と問われています。
神の導きであると信じる時に、喜ばしいことは素直に神に感謝できます。悲しい出来事に対しては、何かしら神の計画があるに違いないと考えて、思慮深くなります。あるいは苦難に対して、耐える力を神から得ます。少なくとも、神が私をいたずらに苦しめておられるのではなく、神は私の人生を支えておられると受け止められるからです。神に向かって祈りたくなることも起こります。祈っても祈っても、答えが与えられないようなこともあります。それでもとにかく、希望を失うことがないようになるのです。神が導いておられるのであれば、神の御心に叶うようにことが進んでいくはずだからです。そして神が、私たちの幸いを願っておられるからです。神が良きことをしてくださると信じて、神に従います。
神に従うと言えば、ファリサイ派の人々もそうです。彼らも神を信じています。ですから「律法に適っているでしょうか」と、神の言葉を使ってキリストに詰め寄ったのです。
キリストが律法によってお答えになりましたから、ファリサイ派は再び律法でキリストを問い詰めます。:7「すると、彼らはイエスに言った。『では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。』」これは申命記24:1を年頭に置いた問いかけです。
キリストは、モーセは離縁することを許可したのであって、そのように命じたのではないと言われました。キリストも離婚を禁じたのではありません。しかしながら、離縁状は、離婚させられた女性の権利を守るためにあるのです。いわば公的な証明書のようなものです。男の気持ち一つで離婚させられてしまいますが、離縁状をしたためることでワンクッション置くというか、夫に冷静に考える時間を与えることにもなります。そもそも男女の結びつきは神が合わせたことです。神による結び付きを人間が、しかも男だけが一方的に解消してしまうのは、神の主権を顧みないことになります。そこには、神への信仰を見ることができません。
ですからキリストは言われます。:9「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」夫の気持ち一つで妻を離縁するのは罪であると言われます。神が結び合わせてくださった神の御心を受け止めないからです。そしてそのような夫は、妻の存在を軽んじてもいます。
神はアダムのあばら骨からエヴァを造られました。アダムなしにエヴァは存在しませんが、エヴァの誕生によって人間の創造が完成したと言えます。聖書が教えているのは男の優越性ではなく、お互いをパートナーとする愛の結び付きです。人として生きる時、愛が大切です。神に愛されていると知ること。神が愛しておられるように、隣人を愛することです。
キリストの教えは決定的です。愛に生きることができないなら、罪を犯すことになると言われるからです。驚いたのは弟子たちです。弟子たちもイスラエル人男性です。妻を気に入らなくなったら離縁すれば良いと考えていたのでしょう。弟子たちが言います。:10「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです。」
そこでキリストが言われます。まず:11「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」ここでキリストが言われる「この言葉」とは、この後の言葉です。そして、キリストの言葉を受け入れることが出来る人が恵まれた者であると言われていますが、原典では「恵まれた者」ではなく、「与えられている人々」です。つまり、これからキリストが言われることは、神からそのようにされている人、神から特別に与えられている人となります。
そして:12「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」結婚するか一人でいるか、それは神の御心であるとキリストは言われるのです。
本日、最初の方で結論めいたことを申し上げました。今日の箇所は「どのように生きるべきか」について教えています。「どのように生きるべきか」と言えば、神を愛し、人を愛して生きるべきです。愛に生きるとは、一人で居るか相手が居るかに関わりなく、人として相応しい生き方です。そして愛に生きるためには、自分の人生を導いておられる御方がおられると受け止めることが重要です。なぜなら、人生には様々なことが起こるからです。
愛に生きようと願いながらも、それどころではない、と思うような時もあるのです。苦しい時、悲しい時。どこから愛が湧いてきますか。愛するとは価値の高いことであり、それだけに難しいことでもあります。自分の問題で精一杯になるような時に、どうして自分の心が誰かを愛することへと向かうでしょう。だからこそ、神が責任を持って人生を導いてくださると信じることが重要なのです。神の導き、神の愛を信じることが出来るなら、自分が行き詰まる時にも、愛に生きることが出来るのです。
戻りますが:1「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」マタイによる福音書で「これらの言葉を語り終えると」という表現は、ある長さを持ったキリストの話が終わった時に出てきます。そして、大きく場面が転換することを示します。19章に入ってキリストは故郷のガリラヤを去り、ユダヤ地方に向かっていきます。すなわち、エルサレムです。エルサレムでキリストは十字架にかけられます。
キリストの人生を外から見るならば、苦難の人生と言って良いはずです。十字架を目指した人生だからです。しかしキリストの心の内を思うならば、神と人を愛した人生です。そして十字架にかけられたキリストは復活するのですから、勝利の人生です。神の愛を知り、キリストの十字架と復活が私のためであると信じるなら、私たちも愛に生きることが出来るのです。外から見れば苦しいことや悲しいこともあります。しかし神の良き御心があると信じるなら、その人生を正面から受け止めることが出来るのです。そして、希望を失うことがないのです。
神と共に生きる人生は幸いです。その人はたとえ独り住まいになったとしても、キリストと共に生きているからです。神があなたの人生を導いておられます。このことを信じる時、人は決して一人ではありません。その人は、愛に結ばれて生きることになるからです。