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2026年5月3日 礼拝説教 「憐れみに応える」

旧約聖書 箴言 28章12~14節
新約聖書 マタイによる福音書 18章21~35節
説教題  「憐れみに応える」
説教者 後登雅博 牧師


マタイ18:21〜35 「憐れみに応える」 箴言28:12〜14    2026.5.3

 今日の箇所の主題は「神の赦し」です。神は私たちの到底負いきれない罪を、全て赦してくださいます。神の赦しの圧倒的なことを思わされます。どうして神は、私たちの罪をお赦しくださるのでしょうか。神にとって罪の赦しは、私たちとの関係を回復することだからです。神の赦しは、失われていた者を取り戻すことです。私たちとの関係回復のために神は、喜んで私たちの罪を赦してくださいます。

 マタイによる福音書18章ですが、キリストが教会について弟子たちに教えておられる箇所です。今日の箇所は「そのとき」という表現で始まっています。今日の話は直前の箇所につながっています。そこで簡単に、直前の箇所を振り返っておきます。

 直前の箇所で、教会には罪を裁く権威があると言われました。教会に集まっている私たちには、誰かを罪に定めたり、その罪を赦す権威があるというのです。それはどうしてかと言えば、キリストが私たちと共にいてくださるからです。言い換えますと、教会はキリストの権威によって罪の裁きをいたします。ですから、決して自分勝手に誰かを裁いたり、誰かを赦すのではありません。そして何と言いましても、自分たちの罪がまず赦されていることを受け止めるのです。神の憐れみ深いことを受け止めて感謝している。それが教会の姿です。イエス・キリストは、直前の箇所で罪の裁きについてお語りになりましたが、それはあくまでも「罪の赦し」に中心があると言うべきです。キリストによって罪が赦されるように、私たちも隣人を赦すべきです。すなわち、キリストのもとには罪の赦しのあることを証しします。

 このようなキリストの話を聞いた「そのとき」、ペトロが尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロは真っ直ぐな人ですから、思ったことを素直に口にします。この時、ペトロはキリストの語られたことに合わせて、精一杯の応答をしたつもりです。それが「七回までですか」という数字に表れています。

 ユダヤ教のラビは、「三回までは赦しなさい」と教えていました。ペトロは、「イエス様だったら三回までなんてことは言われないだろう」と考えました。そして、自分では大盤振る舞いをしたつもりで「七回までですか」と尋ねたのでした。しかし、キリストの答えはペトロの予想を遥かに上回っていました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」これは途方もない数と言えます。キリストは、ラビの教えとは全く違う新しいことを教えておられます。

 ここで、創世記に記されたレメクの発言を思い出します。創世記4:23〜24です。「さて、レメクは妻に言った。『アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。』」レメクはカインの子孫です。カインは自分の弟、アベルを殺しました。カインが自分の罪の重さに気付かされた時、神はカインが殺されないように計らってくださいました。カインにしるしを与え、彼を殺すものは七倍の復讐を受けると宣言されました。カインを保護するためです。そのカインの子孫であるレメクは「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と豪語しました。神の御心を全く弁えない、恐るべき言い草です。

 キリストはきっとレメクの言葉を念頭に置きながら「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのです。そうして、レメク以来の人間の罪を打ち消しておられます。いや、レメクを生み出したカイン、アダムに遡る人間の罪を打ち消されます。レメクが自分の復讐は無限であるとうそぶくなら、キリストの赦しこそは真実に無限であるのです。

 神の赦しが無限であることを教えるために、キリストが例え話をされました。それが:23以下です。ここに出てくる家来は、王に一万タラントンの借金がありました。タラントンは通貨の一番大きな単位です。そして一万も、大きな数字を表すために言われています。

 今から2000年も前の通貨を現代の貨幣価値に変換するのは、それほど簡単ではありません。しかし、話をわかりやすくするために言いますと、一万タラントンはおよそ六千億円です。一人の家来がそんなに多額の借金をすることができたのか? などと現実的に考える必要はありません。これは例え話だからです。キリストは、神の赦しの途方もないことを教えるために、一万タラントンというおよそあり得ないほどの金額を言われました。あり得ないほどと言えば、そもそも「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言うのがあり得ないことであります。

 さて王は、家来に持ち物を全部売って、それでも足りないだろうから自分と家族も身売りしてお金を作るように言います。しかし、それでも六千億円ものお金を返済できるはずもありません。「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った」とあります。どうしたって返せるはずがありません。「きっと全部お返しします」などとは、その場しのぎの言い逃れでしかありません。王にもそのことはわかっています。しかしこの王は、借金の返済を待ってやるどころか「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」というのです。六千億円の負債が帳消しにされました。人間の世界で考えるなら、およそあり得ないことが起こっています。例え話は、神の赦しが全くあり得ない無限の恵みであることを示しています。

 今日の例え話がここで終わっていれば、「みんな幸せに暮らしました。めでたしめでたし」です。しかし、ここで終わりません。借金を帳消しにしてもらった家来ですが、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会います。百デナリオンとは、一万タラントンの六十万分の一です。一万タラントンが六千億円とするなら、百デナリオンは百万円です。百万円と言えば、決して小さな額ではありません。しかし、六千億円と比べるなら、微々たる額と言っても良いはずです。

 家来は六千億円という天文学的な負債を帳消しにしてもらいました。ですから百万円の借金を帳消しにしたとしても、十分お釣りが来るではありませんか。どうして、百デナリオンを帳消しにできなかったのでしょう。神の赦しの例え話なのに、どうしてイエス・キリストは人を赦せない家来の話をされたのでしょうか。

 今日の話の結論は:35になるでしょう。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」自分が赦されているのだから、あなたも赦しなさいということです。結論はそうですが、どのようにしてこの結論に至るかを押さえておきましょう。

 今日の主題は最初に申し上げました。「神の赦し」です。神の赦しが最初に来ます。神の赦しとは、キリストによる救いです。一万タラントンの借金とは、私たちの罪です。私たちには、どうやっても取り消すことができない罪があります。しかし、罪を背負う私たちを神は憐れに思い、全ての罪を帳消しにしてくださいます。そのために、キリストが私たちに代わって十字架にかかられます。罪を帳消しにするために、キリストの命が差し出されます。つまり、キリストでさえ神から断罪されることが起こります。これが罪の裁きです。人は自分がどれだけのことをキリストに背負わせているか、真摯に受け止める必要があります。 

 例え話の家来は、自分が受けた恵みの重さを理解しなかったと言わざるを得ません。ここで皆さんは思うかもしれません。「一万タラントンも赦されているのに、どうしてその恵みがわからないのだろう。自分だったら同じようなことはしない。」しかし果たしてそうでしょうか。一万タラントンとは、例え話だから出てくる数字です。この数字が、神の赦しの無限であることを示しているのは間違いありません。それでは、私たちは自分も一万タラントン赦された者と思っているでしょうか。「自分の罪は百デナリオン分ぐらい」と思っていないでしょうか。あるいは、「信仰歴も長くなったし、それなりに負債を返すことができている」と考えたりしないでしょうか。

 今日の主題は神の赦しです。そもそも、私たちは神に赦された者であり、私たちが誰かを赦すことなどできないのです。神が赦してくださるところに従って、神に感謝を献げることしかできないのです。それなのに、私たちは赦すどころか罪を責めてしまいます。人の罪をあげつらい、自分で自分の罪を責めてしまいます。どうしてでしょうか。

 私たちに出来る赦しとは、自分の損失を補うことでしかないからです。つまり、自分が損をしたときに、それを我慢するのが私たちの赦しです。私たちが誰かを赦すとしても、完全に赦し切ることができません。自分が受けた損失のことを、いつまでも忘れることができないからです。

 しかし神の赦しは違います。神にとって赦すことは、損失ではないからです。むしろ、神の赦しは獲得することです。罪のために失われていた私たちを取り戻すことが、神の赦しです。ですから、キリストは言われたのです。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」キリストの赦しは無限です。私たちを取り戻すために、キリストは喜んで罪を赦してくださるのです。そのために、自ら進んで十字架にお掛かりになるのです。

 このような神の愛、キリストの救いを真実に受け止めるならば、私たちも自分自身を取り戻すことができます。私たち自身を、罪から救いへと移し替えることになります。そして、私たちもまた、隣人の罪を喜んで赦すことができるのです。隣人の救いを見て、我がことのように喜ぶことができるのです。

 神の赦しは、神にとっては損失ではありません。失われた者を獲得することです。そのためにキリストが差し出されましたが、キリストに見合うだけのものを獲得できると神は信じておられます。ですから、神の赦しは無限です。キリストに見合うだけのものを取り戻すまで、神の赦しは続くからです。

 神の赦しは無限ですが、安っぽいことではありません。なんと言いましても、キリストの命がかかっているからです。罪の赦しのために神がどれだけ大きなものをかけておられるか分かると、私たちも隣人を赦すことができます。それだけ大きなものを、神が自分のためにかけておられるからです。神の愛が、とどまることを知らないからです。

 赦しは失われた兄弟姉妹を再び得ることです。兄弟姉妹を得ることができるなら、これほど喜ばしいことはありません。教会が兄弟姉妹を得るまでは、何度でも罪の赦しを語ります。自分が神に赦されているからです。そして、教会の言うことを聞いてもらえないとしても、教会の方からその人との関わりを切ることはしません。その時、教会はその人をイエス・キリストにお委ねするからです。キリストは、罪人を招く御方です。私たち自身、キリストに招かれた罪人です。私たちは教会で、キリストにお会いしたのです。自分がどれほどの罪を赦されているか。改めて受け止めましょう。私たちの罪は、神が憐れに思って赦してくださっています。イエス・キリストが私たちに代わって、罪の負債を全て支払ってくださっています。

 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」これが父なる神の切なる願いです。だからこそ「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と、キリストも言われるのです。私たちが神の憐れみを受け止めるまで、何度でも罪の赦しを神は繰り返し宣言されます。誰一人として、神の憐れみ、神の赦しから漏れるようなことがあってはならないからです。神の赦しの恵みを受け取り損なってはならないからです。

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