2026年6月21日 礼拝説教 「仕える者となる」
旧約聖書 イザヤ書 53章1~5節
新約聖書 マタイによる福音書 20章17~28節
説教題 「仕える者となる」
説教者 後登雅博 牧師
音声ファイルのみ
マタイ20:17〜28 「仕える者となる」 イザヤ53:1〜5 2026.6.21
マタイによる福音書を続けて読んでいます。ここしばらく、神の国の話を聴きました。神の国には、子どものような人が入ります。大きな働きがなくても、入れてもらえます。神の国の主人がとても憐れみ深く、しかも気前の良い御方だからです。神の恩恵によって、私たちは神の国の民とされます。神の国に入るのは、私たちの功績によるのではありません。このことはどれほど強調してもしすぎることはないでしょう。神は私たちの想像を遥かに超えて、私たちを祝福したいと願っておられるからです。
神の国は、全く神の恩恵によるのでした。私たちの働きがなくても、神の国が約束されています。そうなりますと、誰かが私たちに代わって働いてくださったはずです。そうです、私たちを神の国へ招き入れるために、キリストがしてくださることがあります。それは、私たちの罪が赦されるようにすることです。そのために、キリストが十字架にかかり、三日目に復活されます。そのことが、本日最初に語られます。
:18以下ですが、キリストの受難予告です。キリストは今までにも二回、自分が殺されることをお語りになりました。今日は三度目となる受難予告ですが、今までよりも詳しく語られています。つまり、異邦人に引き渡されることと十字架につけられることが今日は新たに語られました。
これからエルサレムへ向かって進んで行かれます。キリストの十字架が迫ってきている分だけ、具体的なことを言われたのでしょう。キリストは弟子たちに、その日に備えた心づもりをさせようと考えておられます。ところで、キリストの目論見はうまくいったのでしょうか?
マタイは:20に「そのとき」と書きました。こうして、キリストの受難予告と:20以下の出来事とが結び付けられています。:20「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。」母親というものは子どもの幸いを願うものです。この母の息子たちは、ヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネの母は、キリストが栄光を受けるときに、自分の子どもたちもその栄光に与れるようにしてくださいと願います。母の願いは、子どもたちの幸せです。しかしながら、キリストが王座に着くとはどういうことか、分かっていないと思われます。
人は自分が見たいものだけを見て、自分が聞きたいことだけを聞き取ります。この時の母も、そしてヤコブとヨハネの兄弟もそうでした。
:18でキリストは「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と言われました。イスラエル人にとってエルサレムといえば、エルサレム神殿がある特別な場所です。キリストがエルサレムへ上って行くと言われれば、何か華々しいことが起こるに違いないと弟子たちは期待します。
いや、「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」ともキリストは言われました。キリストがエルサレムに行くのは、自らが殺されるためだと言われました。それでも、キリストの言われた肝心なことが、弟子たちの心には届いていないようなのです。「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」と聞かされても、そのようなことがあろうはずはない、と思ったのかもしれません。受難予告も三度目となり、弟子たちはあまり重く受け止めなくなってしまったのでしょうか。あるいは「人の子は三日目に復活する」という発言だけが、心に残ったのかもしれません。いずれにしても、キリストの十字架と復活を正しく受け止めたようには思われません。もしも十字架と復活とを正しく理解していれば、キリストが捕まった時の弟子たちの行動も違っていたと思うからです。祭司長や律法学者たちを恐れることなく、キリストの元に踏みとどまったはずです。しかし弟子たちは、恐れをなして逃げてしまうのです。キリストは、この先に起こることを見通しておられます。
そこでキリストは言われました。:22「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」キリストの言われたことが正しいのです。ヤコブとヨハネは、自分たちの求めていることが分かっていません。キリストがエルサレムに向かう目的が分かっていません。イエス・キリストは、イスラエル人の王になるためにエルサレムに行くのではありません。
キリストは何のためにエルサレムに行かれるのでしょうか。:28で言われた通りです。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」キリストはこの世の王になるためではなく、むしろ仕える者となるために、エルサレムに行かれます。私たちに代わって、自分の命を献げるためにエルサレムに行かれます。キリストが命を献げてくださったので、私たちに神の国が開かれています。
はじめに申した通りで、神の国は神の恩恵として私たちに開かれています。それなのに、ヤコブとヨハネは他の弟子たちを出し抜くようなことを求めました。そのため、他の弟子たちが腹を立てます。
ヤコブとヨハネの求めがたしなめられるべきです。その一方で、他の弟子たちが怒るのも褒められたこととは思いません。自分たちの取り分が減る気がして腹を立てたに違いないからです。
キリストは弟子たちの思いをよく見抜いておられます。キリストは言われます。:26、27「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」偉くなりたければ、仕える者になりなさいと言われます。皆に仕える人が、一番偉いのだと言われます。
キリストは今まで、神の国について話してこられたではありませんか。子どものような人が神の国に入ります。一時間しか働けなくても、他の人と同じように多くの報酬がいただけるではありませんか。どうして人を出し抜くようにしてまで、先に行こうとするのでしょうか。誰かの上に立って権威を振りかざそうとするのでしょうか。そのようなことは、この世界の中だけで十分ではありませんか。実際のところ、武力でよその国を従えようとしても、得るものはほとんど何もないではありませんか。
そうです。キリストに従うのは、何らかの利益を獲得するためではありません。キリストを信じる時に罪の赦しが与えられ、神の国という大きな報酬を手にします。しかしながら、何か得るものがあるのでキリストを信じる、というのではありません。言うなれば、キリストを信じることそのものが、幸いなことです。私がそうですが、神に愛されていることがわかったあの夜、本当に雲の上を歩いているような嬉しい気持ちになりました。
キリストを信じるとは、何がしかの利益を求めることではありません。私のために、自らの命を引き渡して下さった方がいる。ただただその愛の御業に感謝するのです。それが、キリストを信じますという告白になります。キリストを信じたのですから、もうすでに十分な恵みを受けていると言えます。
すでに恵みによって生かされていることを受け止めましょう。このことがあやふやになると、自分にはまだ恵みが足りないように思ってしまうことがあります。そして更なる恵みをいただくために、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うた金持ちの青年のようになってしまいます。キリストを信じているけれど、まだ何か善き行いが足りないのではないかと不安になってしまうかもしれません。
:22「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と言われて、ヤコブとヨハネは「できます」と答えるのです。自分の行い、自分の決意を信じています。最近つくづくと思います。人間の決意のなんと頼りないことかと。いや、これは自分自身のことなのですけれども。悔い改めて、心を入れ替えて頑張ろうと決意しますが、すぐにその決心が崩れてしまうのです。
私とは違いまして、「できます」と答えたヤコブとヨハネの決意の固いことを疑いません。キリストも彼らの決意を否定されません。彼らを慈しんでおられるからです。そしてキリストは、これからヤコブとヨハネに起こることを見通しておられるからです。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われました。彼らの決意の通りになると言われました。キリストが殺されてしまうように、ヤコブとヨハネもそれぞれの杯を飲むことになります。彼らもキリストの故に、苦しめられます。
ヤコブは十二弟子の中で最初に殉教しました。ヨハネは十二弟子の中では一番長生きしますが、この人はパトモス島に島流しにされます。ヤコブとヨハネの兄弟は、キリストの杯を飲むこととなったのでした。いや、杯を飲むと言えば結局、全ての十二弟子がそれぞれの杯を飲むことになったのです。キリストの弟子として、終始穏やかな生涯を全うした人はいないのです。キリストの弟子がこの世で誰かの上に立ち、権威を振るうようなことからは遠いからです。
キリストに従う時に待ち受けてることが何であるか。弟子たちは少しずつ学んでいきます。今日の時点では、キリストの杯とは何かよくわかっていません。それでも、彼らは確かにキリストの弟子です。そして後に、キリストの弟子とは仕える者であることが分かってきます。この世で権力の座に着くようなことではないと分かってきます。その時に、苦労することばかりである弟子を辞めたかと言えば、そうではないのです。
様々なことが分かってきた時、改めて皆に仕える者になっていきました。何が分かったかと言えば、キリストの御心がわかったからです。自分がどれだけキリストに重荷を負わせていたのか分かりました。そして、そんな自分をどれだけキリストが愛し続けて下さっていたか分かりました。まことに悟りの悪い者をも見捨てず、キリストは愛し抜いてくださいました。皆に仕えるとはどういうことか。まさに身をもって示してくださいました。私たちも弟子たちと同じように、キリストの愛にとらえられています。神の恵みはすでに、与えられています。
神の国が、キリストの十字架と復活を通して確かにされています。キリストの故に、私たちの罪は確かに赦されているからです。私たちは誰かと比べたり、誰かを出し抜く必要はありません。私たちに与えられている罪の赦し、神の国がまことに尊く、確かであるからです。