2026年8月9日 礼拝説教 「あとさき関係なく」
旧約聖書 イザヤ書 43章8~15節
新約聖書 マタイによる福音書 21章28~32節
説教題 「あとさき関係なく」
説教者 後登雅博 牧師
音声ファイルのみ
マタイ21:28〜32 「あと先関係なく」 イザヤ書43:8〜15 2026.8.9
イエス・キリストは私たちを神の国に招き入れるために来られました。キリストによって神の国へと招かれるのです。言い換えれば、自分の力で神の国に入るのではないということです。どうしてかと言えば、神の国が遠くなってしまったからです。それは、私たちの罪が招いたことでした。しかし、私たちの罪をそのままにして、神の国が遠くあるままということは、決して神の願うところではありません。ですから、神はキリストを私たちのところへと送ってくださったのです。キリストが私たちのために、御自身を差し出されたのです。
私の信じるキリストは、どこまでも私たちのために愛を注ぎ続けてくださる御方です。キリストが恵みと憐れみに富む方であることは、どれだけ強調しても足りません。
キリストのことを語るときに、キリストの愛や憐れみについて語るべきです。しかし、キリストを何の考えも無しに、ただ優しいだけの御方と考えてしまうのは違うでしょう。つまり、キリストは私たちを救いに入れるために、真剣であるということです。キリストの愛は途方もなく大きいのですが、厳しくもあります。
キリストを信じますと告白するなら、無条件で救いに入れてくださいます。しかしながら、キリストに敵対する人をも自動的に救うようなことはありません。真実に、キリストを我が主、救い主と信じて告白することが求められます。私たちから信仰の告白を求める御方は、その告白が自動的に出てくるものではないことをよく知っておられます。私たちには、自力で救いの告白をすることができないからです。そのために、私たちが真実な告白に導かれるように、全力を尽くしてくださるのです。例え、キリストに敵対する者であっても、キリストが放っておかれることはありません。真剣に向き合ってくださいます。そして、向きを変えてキリストを受け入れるようにと働きかけられます。今日の箇所からも、このことがわかるはずです。今日の例え話ですが、先週の箇所の続きです。すなわち、祭司長、長老、律法学者たちとの対話の続きです。キリストは、祭司長たちサンへドリンのメンバーに向かって例え話をしておられます。
本日の例え話ですが、それほど難しいことは言われていないかと思うのです。二人の息子がいて、ぶどう園で働くようにと父親から言われます。父に対して「嫌です」と言った兄は思い直して父の願い通りにしました。一方の弟は色良い返事をしましたが、結局口先だけでした。どちらが父の願いに叶ったかといえば、最後は働きに行った兄の方です。
例え話は、お話の全体から一つのメッセージを読み取るものです。ですから、それぞれの登場人物が誰を指しているか、ぶどう園とは何を象徴しているのか、などと考える必要はありません。と言いつつ、例え話に出てくる父は天の父なる神であり、ぶどう園は神の国でしょう。
さて、この譬え話のメッセージですが、キリストの言葉に示されています。:31後半です。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイ19:30)というわけです。
このように言われるのが祭司長たちには、およそ受け入れ難い爆弾発言だったろうと思われます。「徴税人や娼婦」といえば、イスラエルでは罪人とみなされる人たちです。イスラエル人は自分たちこそ神の選びの民と思っています。しかしイスラエル人であっても、「徴税人や娼婦」ではとてもとても神の国になど入れるわけがない、と祭司長たちなら考える所です。それなのに、あろうことかそのような人たちの方が、自分達よりも先に神の国に入るとキリストに言われてしまいます。これはもう、祭司長たちにすれば我慢ならない侮辱と受け取ったはずです。祭司長、長老、律法学者たちはユダヤの最高会議サンへドリンのメンバーです。自分達こそイスラエル社会の権威です。その自分達を差し置いて「徴税人や娼婦」が神の国に入るなんて、とんでもないことと考えるはずです。
キリストがなさった例え話は、サンへドリンを否定するとんでもないメッセージでした。以上が例え話から分かることであり、例え話の大体の説明と言って良いはずです。それほど分かりにくいことはないはずです。
しかしそれでいて、例え話とキリストのメッセージには、少しばかりズレているところがあります。恐らく皆様もスッキリしないものを感じておられるはずです。この例え話の場合、兄と弟が入れ替わっている方がしっくり来るのではないでしょうか。
今から2000年ほども前の時代ですから、現代のような印刷技術はありません。聖書は写字生と呼ばれる人々の手書きよって伝えられてきました。そのようにして書き写された聖書の中には、兄と弟の言動が正反対に入れ替えられている写本もあります。聖書を書き写す時に、兄と弟を入れ替えた方がスッキリすると考えた人がいたということです。
例え話の登場人物一人一人が誰のことか考えなくて良いと言いました。それでも単純に考えて、兄が祭司長たちで、弟が徴税人や娼婦となるはずです。イスラエルは長男の方が重んじられる社会だからです。そうして、兄こそが父なる神の言いつけに従って「はい、行きます」と答え、罪人を象徴する弟が「いやです」と答えます。ところが、実際の言葉と行動は正反対でした。だから、徴税人たちの方が神の御心に叶うのであり、先に神の国に入るのです。と、こうなっていますと、例え話とキリストのメッセージに一貫性があります。
ところがそうはなっていません。ですから、例え話自体は分かりにくいものではありませんのに、ちょっとスッキリしません。そしてもう少し言いますと、徴税人や娼婦ですが、この人たちはいつ「いやです」と言いながら、後で思い直したのでしょうか? 後で考えてみます。
さて一方の祭司長たちは、まさに例え話に出てくる弟そのものです。祭司長たちは自分達こそ神の御心に叶うもの、神の戒めに従っている者、と思っています。ですから、神にぶどう園で働いてくれと言われれば、「お父さん、承知しました」と答えます。ちなみに、弟の返答ですが、通常の父親に対する答え方ではありません。「私はそうします、主よ」と答えています。主人に対する奴隷のような返事の仕方です。
しかし実際はどうでしたか。「主よ」と恭しく答えておきながら、出かけていきません。キリストに言わせれば、彼らこそは神殿を強盗の巣にしているではありませんか。人々に神のことを教えますが、自分達がどれほど神を敬っているかといえば、甚だ怪しいのです。
あれこれ言い過ぎまして、何が問題なのか見えにくくなってきたかもしれません。単純に言います。兄と弟が入れ替わっているのが本来の例え話ではなかったのか、ということです。その方が、例え話とその後にキリストが言われることとがうまく重なり合います。
しかし、より正しいと思われる写本に従って、新共同訳聖書は翻訳しています。兄が「いやです」と言い、弟が「お父さん、承知しました」と答えたのでした。これがやっぱり、キリストがしてくださった例え話なのです。これはどういうことでしょうか。
厳しいことを言えば、兄も弟も父に対して完全ではありません。兄は思い直してぶどう園に行きました。でも最初から素直に父の願い通りにしたのではありません。兄の正しさは、弟に比べれば正しかったということです。絶対的な正しさではありません。だからこそ、「徴税人や娼婦」が先に神の国に入ることができると言えるのです。「徴税人や娼婦」つまり私たちのことですが、私たちには絶対的な正しさはありません。私たちが思い直すことができたのは、イエス・キリストの働きかけによることです。最初から私たちに、神の国にふさわしいだけの正しさがあったのではありません。
:31「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」キリストですが、「先に入るだろう」と言われました。キリストは、神の国に入る順序の後先を言われました。キリストは「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)と言われたこともあります。「先に入るだろう」とは、絶対的に優先されることを言うのではありません。あくまでも順番についてあなたが先、あなたは後ということです。だからこそ、兄の言動と弟の言動が入れ替わっていても良いのです。
兄であるサンへドリンのメンバーは神をどのように受け止めているでしょうか。キリストから見れば、およそ正しく主を礼拝しているようには見えません。彼らは自分達としては「私はそうします、主よ」と恭しく、主なる神に応えているつもりです。でもその行動は、神を第一としているようには見えません。少なくとも、「徴税人や娼婦」よりも彼らが先に神の国に入ることはありません。
今日の例え話はサンへドリンのメンバーに向かってなされたのでした。キリストは、彼らから神の国を取り上げるためにこの話をされたのでしょうか。:31や:32のキリストの発言を見れば、彼らに対する厳しい言葉です。どうしてこのような言葉が出てきたかといえば、キリストの救いが自動的に与えられるものではないからです。つまり、「徴税人や娼婦」のように洗礼者ヨハネを信じ、キリストを信じなければ救いに与らないからです。
サンへドリンのメンバーは、イスラエル社会の兄です。本来、率先して神の栄光を表し、神から遣わされたヨハネや救い主イエス・キリストを信じるべき人々です。その彼らが父なる神から「ぶどう園で働いてくれないか」と言われたのに「いやです」と答えているのです。しかしその彼らも、後で考え直すことができることを、キリストの例え話は示しています。
最後にもう一つだけ考えておきます。父の願い通りにするとはどういうことでしょうか。それはぶどう園で働くということです。ではそうなると、結局キリストの救いとは、私たちの行い、私たちの功績によるということでしょうか。そうではありません。:32「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」単純に申し上げます。父なる神が願っていることは、神の義を信じることです。そして考え直すとは、悔い改めるということです。「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入る」のはどうしてですか。自分達に罪のあることを認めたからです。自分の力や自分の普段の生活によっては、とても神の国には入れそうにないと分かったからです。
徴税人や娼婦ですが、この人たちはいつ思い直したのでしょうか。正直に言いまして、「いつ」とは言えません。というのも、信じる者の生活は、絶えざる悔い改めの生活だからです。罪を悔いてはまた罪を犯し、また罪を悔いる。このような生活を私たちは続けるのです。地上にある間、私たちには罪があるからです。性懲りも無く罪を犯す私たちですが、その度に悔い改めるならば、キリストは何度でもその罪を赦してくださいます。キリストの十字架と復活は一度きりでしたが、その御業には私たちの全ての罪を赦してあまりある十分な効力があるからです。
今週の土曜日、受洗の学び会をします。洗礼の誓約事項について学んでいますが、その二つ目はこうです。「あなたは、自分が神のみ前に罪人であり、神の怒りに値し、神のあわれみによらなければ、望みのないことを、認めますか。」私たちがキリストの救いに与るには何の力も功績もないことを認めなければなりません。私たちには自分自身を救い得る力はありません。しかし、神の憐れみが私たちを救いに入れてくださるのです。キリストの御業において、完全に私たちの罪は赦され、神の国の門が大きく開かれているからです。私たちが全く自分自身の力を捨て去るところで、神の力が働きます。この世の権威や人から褒められるようなことがなかったとしても、神の救いは与えられます。キリストは憐れみと恵みに富む御方だからです。キリストを信じますと告白するなら、何の功績も求めずに、無条件で救いに入れてくださるのです。神の憐れみを信じて、イエスは主なりと告白しましょう。