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2026年10月11日 礼拝説教 「偽りを捨てる」

旧約聖書 コヘレトの言葉 5章1~6節
新約聖書 マタイによる福音書 23章13~36節
説教題 「偽りを捨てる」
説教者 後登雅博牧師

音声のみもあります

マタイ23:13〜36 「偽りを捨てる」 コヘレトの言葉5:1〜6  2026.10.11

 聖書には、イエス・キリストの言葉と出来事を記録した福音書が四つあります。キリストについての記録が四つもありますので、同じ出来事についての記述もあります。それを平行箇所と言います。
 先週から、マタイによる福音書23章に入りました。ここには律法学者とファリサイ派を非難するキリストの言葉が記録されています。今日の箇所には、先ほど言いました平行箇所があります。新共同訳聖書には小見出しに続いて、平行箇所がどこにあるか記してあります。今日の記録についての平行箇所ですが、マルコとルカにあることがわかります。
 これらの並行箇所を読み比べてみますと、今日の出来事についてはルカが実際の出来事を正確に記録しているように感じました。と言うのは、ルカによる福音書11:53〜54です。「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。」キリストの言葉に対して、律法学者、ファリサイ派は激しく怒るのです。それが普通だろうと思います。これだけ厳しく非難をされて、何の反応もしなかったとは考えにくいことです。
 すると、キリストは彼らが怒ることを重々承知の上で、これらの厳しい言葉を語られたのでしょうか。彼らを怒らせるために、語られたのでしょうか。そうではなく、あくまでも彼らを悔い改めさせるために、彼らの現実を指摘されたのです。キリストが語られたのは、ただの悪口ではないからです。誤りを指摘するのは、それが改善されることを願うからです。
 しかしそれでも、彼らがすんなり悔い改めないであろうことも、キリストにはわかっていたはずです。悔い改めは、罪の赦しを得るために欠かせないことです。しかし、キリストの思いは彼らに伝わらず、彼らが悔い改めるどころか、いよいよキリストへの敵意を燃え上がらせることになります。これらのことは、キリストにとっては誠に心痛むことであったはずです。命に至る悔い改めへと導くためには罪を指摘しなければなりません。しかし罪を指摘すればするほど、彼らの心は頑なになってしまうのです。私たちは今、イエス・キリストの心中を思いながら、これらの厳しい言葉と向き合いたいのです。
 :13「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」「あなたは偽善者だ」と言われてドキッとしない人は幸いです。
 妙な言い方になりますが、教会にいますと「あなたは罪人である」と言われるのには慣れているところがあります。祈る時にも、「罪ある私を憐んでください」と祈ることがあります。自分に罪があると心から自覚していますし、その罪はキリストによって赦していただけると信じているからです。イエス・キリストの故に、自分が罪人であることを、何のてらいもなく言い表すことができるのです。むしろ、自分が罪人であると告白することに救いがある、とさえ思っています。
 しかし、「あなたは偽善者である」と言われたら、途端に面食らってしまうのです。それこそ、神にも人にも隠しておきたい心を引きずり出されたような気がしてきます。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と言われて、これはまさに自分の最も触れてほしくない部分に触れられてしまったような気がしてきます。ここにきて、キリストと一緒になって律法学者やファリサイ派を非難しているわけにはいかなくなってきます。キリストの言葉によって、私の隠している心が明るみに出されているからです。
 しかしなぜ、彼らが偽善者だと言われるのでしょうか。その根拠について語られるのを聞くと、自分とは少し違うという思いがしてきます。先ほどの:13では、天の国を閉ざすので不幸だ、偽善者だと言われていました。私も確実に罪人の一人です。それでも、天の国に入れてもらえると信じています。罪の自覚はありますのに、神の国には入れると思っているのです。この点、私は幸いです。
 でも律法学者、ファリサイ派は天の国に入らないと言われています。入ることができないのではなく、入らないのです。そして、入ろうとしている人まで入らないようにします。それではどうしたって不幸になります。どうしてそのようなことになってしまうのでしょうか。
 どうしてかと言えば、キリストは:15で言われます。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」彼らの熱心は、彼らと同じような人を作り出すからです。その結果、天の国はどんどん遠くなっていきます。彼らは端的に言いまして、キリストを信じていないからです。キリストを信じない人、キリストに敵対する人を作り出すことに熱心なのです。キリストを信じることなく、神の国が開かれるはずもありません。
 律法学者、ファリサイ派が天の国を閉ざします。そのため、他の人も入ることができません。この状況を思って、キリストの心が痛まないはずがありません。そしてそのような行いが、偽善であると非難されるのです。
 いえ、ファリサイ派たちは自分が偽善だとは思っていないはずです。何しろ、熱心を律法に守り、神に仕えているからです。しかしその熱心も、神への献身も、キリストの目には偽りと見えます。
 偽善者という表現は、いささか厳しいと思います。偽善者とは、本当は善なる心ではないのに、善人を装うことだからです。ファリサイ派は自分の心を偽って善行に励んでいるのではありません。律法を守る熱心そのものは、彼らの心そのものを映し出しています。しかしそれでも、根本的に間違っているのです。善であるように偽ってはいないかもしれません。しかしながら、神に対する偽りとなっているのです。
 :16から:22にかけて、彼らの誓いが偽りとなっていることが言われています。:16と:17をお読みします。「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」
 「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である」などということはあり得ません。神殿にかけて誓うとは、神にかけて誓うことを意味するからです。ここで言う神殿とはエルサレム神殿のことです。人々は、神を礼拝するためにわざわざエルサレムまで巡礼の旅をしました。神殿に神がおられる、というのがイスラエルの信仰です。それなのに「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」とは、全く神を無視したようなことではありませんか。「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」それは明らかです。誰にも明らかなことが、律法の専門家たちにわかっていないはずがありません。彼らはわかっているのに、おかしな主張をしています。これは明らかに偽りです。
 今日はコヘレトの言葉を読みました。5:3〜4「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。願をかけておきながら誓いを果たさないなら、願をかけないほうがよい。」神に誓うとは、厳かなことです。ですから、誓ったことは果たさねばなりません。しかし、果たせそうもないことを、気負って誓う必要はないのです。無理に誓うことはないのに、ファリサイ派は誓いだけはするのです。その方が見栄えが良くなるからです。しかしながら、神へと向かわない誓いですから、やはり偽善です。
 ファリサイ派は黄金や供え物にかけて誓うならば果たさねばならない、と言いました。しかし実際のところ、そのような誓いは、いい加減な誓いとなるのではないでしょうか。つまり、誓いが果たされなかったとしても、簡単に言い逃れができたのではないでしょうか。例えば、「神にかけて誓ったのではないから、果たさなくても神はお咎めにならない」と言い得たのではないでしょうか。もしも本当に果たすつもりのある誓いなら、最初から神の御名によって誓うはずだからです。律法学者たちへの非難はまだまだ続きます。しかしこれ以上、くどくどと彼らの偽善について語る必要があるとは思いません。
 最初に「あなたたち偽善者は不幸だ」と言われて、ドキッとしました。しかし、ファリサイ派への批判を聞いているうちに、これは私のことではないという思いがしてきました。私たちが、キリストから非難されるような者でなければ幸いです。しかしマタイによる福音書では、これらの非難の言葉は群衆と弟子たちに語られています。キリストが群衆や弟子たちを非難しておられるのではありません。それでも、キリストに従う者たちが聞くべきこととして語られているのです。どうしてでしょうか。
 ここで語られているのは、私たちが受け止めておくべき、私たちの罪のことだからです。教会で罪のことを言われても、すっかり慣れっこになっているかもしれません。そうであればなおのこと、私たちは心してキリストの言葉を受け止めなければなりません。そして、キリストが私たちの罪のために、十字架に架かられたことを重く受け止めなければなりません。そうでなければ、私たちも偽善者となってしまうかもしれません。
 キリストを十字架につけてしまう罪ある者が、どうして神の国に入れると言って良いのでしょうか。それは、私たちも自分の心を偽ってしまうほどに、自分には救う力がないと知っているからです。そして、キリストの非難の言葉が、私のことであると受け止めるからです。キリストの厳しい言葉は、私を滅ぼそうという言葉ではなく、私に悔い改めを迫る言葉であると受け止めるからです。
 厳しい言葉を語られたキリストは、そのために律法学者、ファリサイ派、祭司長、長老、ありとあらゆる人々から憎まれました。キリストは人々の憎しみを一手に引き受けて、十字架へと向かわれます。キリストは私たちの罪をも引き受けて、十字架へと向かわれます。キリストの十字架に偽りはありません。十字架には命が賭けられているからです。私は、自分の罪も十字架にかけられたと信じます。そうして、罪ある私はキリストによって命を得ているのです。偽りなく、キリストを信じるのです。キリストを信じる幸いを受け止めましょう。その時、私たちは確かに神の国に入ることができるのです。

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