2026年10月4日 礼拝説教 「どう生きるか」
旧約聖書 詩編 1編1~3節
新約聖書 マタイによる福音書 23章1~11節
説教題 「どう生きるか」
説教者 後登雅博 牧師
音声のみもあります
マタイ23:1〜11 「どう生きるか」 詩編1:1〜3 2026.10.4
マタイによる福音書23章に入りました。23章には、イエス・キリストの厳しい言葉が続きます。小見出しにもありますように、キリストが律法学者とファリサイ派の人々を非難しておられます。イエス・キリストが非難の言葉を浴びせておられるのですから、これはよっぽどのことと言えます。ですから、私たちとしても心して聞く必要がありそうです。
ところでキリストのファリサイ派批判を聞きながら、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。キリストと一緒になって、ファリサイ派を非難しておけば良いのでしょうか。それとも、彼らに言われた言葉を自分のこととして聞くのでしょうか。繰り返しますが、キリストの言葉をどのように受け止めるのか、ということです。それはつまり、イエス・キリストを如何なる御方として受け止めるのか、ということでもあります。キリストは、怒りに任せて心にあることをそのままぶつける御方でしょうか。それとも、大事なことを教える御方でしょうか。まずはキリストが語られたことに耳を傾けてみましょう。
イエス・キリストのファリサイ派批判ですが、群衆と弟子たちに向けて語られています。:1「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった」とある通りです。そうして長々と律法学者とファリサイ派についての批判の言葉が続きます。ここから分かるのは、キリストに従う人たちに何かを伝えようとしておられることです。
キリストが言われたことを厳密に押さえておきましょう。:2、3「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」キリストは、「彼らの言うことは守るように」と言われます。彼らは律法学者です。神の言葉についての専門家です。ここで言う神の言葉とは旧約聖書になりますが、彼らが御言葉について教えることは聞いておく必要があるのです。
福音書においてファリサイ派といえば、しばしばキリストに敵対する人々として登場します。ですから、私たちもついついそのような色眼鏡で彼らを見てしまうことがあります。ファリサイ派は悪い人、と単純に考えてしまいがちです。しかし、彼らが神の言葉を重んじて、真剣に律法を守ろうとしていたことまでは否定しない方が良いのです。そして全ての律法学者が悪者であったとは考えない方が良いでしょう。実際のところ、ファリサイ派はサドカイ派とは異なり、一般の人々から一定の信任を得ていたようです。サドカイ派が貴族階級であったのに対して、ファリサイ派は庶民派だったからです。ファリサイ派は人々に近いところにいるのです。それだけ影響力も大きいのです。
しかしそのように、ファリサイ派が一般の人々との距離を近く保っていただけに、キリストは言われます。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」これは誠に痛烈な批判です。全てのファリサイ派、律法学者ではないにしろ、キリストから非難されるところがあったのです。そして確かに、彼らはキリストを陥れようと企んだのです。
さてファリサイ派、律法学者の何が問題だったのでしょうか。:4「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」これは彼らの律法理解によることです。神の戒めを守る熱心が、神の掟を人間のルールに変えてしまいました。
キリストが言われたように、律法の中で最も重要な掟と言えば、神と人を愛するというシンプルなことでした。その神の戒めが人間のルールによって613にまで増えました。そうして、神の掟は背負いきれない重荷となってしまいました。
彼らの律法に対する真剣さまで否定するつもりはありません。しかし、神の御心を正しく受け止めていないのではないか、と思わされます。神が掟を与えたのは、私たちがより良く生きるためです。その一番大事なところが抜け落ちているように思うのです。掟を与えた神の愛を受け止めていないように思うからです。神は愛の神ではなく、違反を厳しく取り締まる神であると考えてしまったのではないでしょうか。ですから、神の怒りに触れないようにと予防線をあちらこちらに張り巡らします。そうして気がつけば、背負い切れない重荷となっていました。そのくせ自分たちでは、重荷を動かすために指一本貸そうとしない、と言われます。つまり、重荷を抱えて喘ぐ人に見向きもしません。どうしてですか。「言うだけで、実行しないからである」という有様だからです。律法に違反するようなことは避けますが、誰かが律法に押しつぶされたとしても、それはその人の問題だからです。そして巧妙に、自分たちは律法を守っていることにできたのです。そのことは、次の礼拝で取り上げることになります。
「言うだけで、実行しないからである」と言われますが、では何もしなかったのかと言えば、そうでもありません。:5「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」「聖句の入った小箱」とか「衣服の房」というのは、神の言葉に基づくことです。聖句の入った小箱を手に結び、額につけておくようにと申命記に書いてあります。また、衣服の四隅に房をつけておいて、それを見るたびに神の言葉を思い起こすように、と民数記に書いてあります。小箱も房も、御言葉を心に留めている目印になったのです。自分が熱心に御言葉を心に留めていることを、人々に見てもらいたいのです。
キリストが弟子たちに祈りを教えておられる場面があります。マタイによる福音書6章です。マタイ6章で偽善者のことが非難されていますが、それもファリサイ派、律法学者のことと思われます。その文脈でキリストが言われました。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:6)。神が私たちのことを見てくださっているのです。人には知られていなくても、神は知っていてくださるのです。神が御心に留めてくださっているのですから、右手がしたことを左手に知らせる必要はないのです。
しかし、ファリサイ派、律法学者のように、人の目ばかり気にしているとするなら、神を信頼していないことになってしまいます。彼らは神の言葉を良く学び、神に仕える人たちです。それなのに、神のことよりも人のことを気にしています。
もとより、目の前に居る人のことにも心を配らなければなりません。目の前で重荷を背負っている人がいるなら、手を差し出すのが良いのです。しかし律法学者たちは手を貸さず、自分が注目を集めることを考えているようです。:7「また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」こういうところを読みますと、私も「先生」と呼ばれることがありますので、ドキッとします。
「先生」と訳されている言葉は、「ラビ」という単語です。これは「私の大いなる者」という意味で、優れた律法の教師に対する呼びかけです。彼らは律法の教師ですから、人々から「ラビ」と呼ばれたがっているのです。
学校の教師や何かを教えてくれる人を「先生」と呼んで悪いわけではありません。しかしそのように呼ぶ時でも、まことの教師とは誰であるか弁えておきなさいとキリストは言われるのです。それが:8です。「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」なぜこのようなことを言われたのでしょうか。続く:9も読んでおきましょう。「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」自分の親を「父」と呼ぶのが禁じられているのではありません。父なる神が絶対的な存在であることを強調して言われているのです。
先ほどの:8と合わせて考えてみます。父なる神の御前には、人間の優劣は無いということです。積極的に言えば、父なる神は全ての人を尊いものと見てくださっています。それなのに、人間の間では「自分は偉い」とか「あの人は劣っている」とか思うべきではないということです。何しろ全ての人が、神によって命を与えられた存在だからです。誰一人、神の御手を介することなく地上に存在している人はいないのです。
キリストのファリサイ派、律法学者批判も、彼らを貶めるためでないことが明らかです。キリストの非難の言葉を聞いて悔い改めるかどうかは、彼らの課題です。そうです。キリストとしては、あくまでも彼らに悔い改めを迫る言葉として、彼らの問題を指摘しておられます。そして同時に、私たちにも悔い改めを求めておられます。
本日はこの後、主の晩餐に与かります。式辞で「聖餐を受ける者は、神の御前に、自分自身を吟味し、悔い改めと信仰を表さなければなりません」とあります。悔い改めとは罪を嘆くことです。そして、その罪が赦されると信じることです。言い換えれば、自分で自分を裁くことではありません。裁く御方は神だからです。そして神の裁きは、キリストにおいてすでになされているのです。
イエス・キリストは厳しい言葉を語られました。ファリサイ派の人々に向かって「言うだけで、実行しないからである」と言われました。そのように言われる御方が、口先だけの人でしたら何の説得力もありません。キリストは言うだけでなく、重荷に喘ぐ人を救ってくださる御方です。神と人を愛することが最も重要な掟であると言われた方は、愛に生き、愛のために死なれた御方です。キリストの御業に比べるまでもなく、私たちに実行できることは僅かです。世界の戦争や各地で起こっている災害を想うときに、自分は何と無力なものかと痛感します。それでも私たちは、キリストの言葉を聞き続けていれば、生きることができるのです。キリストの言葉は、私たちの無力さを非難する言葉ではないからです。力無き私たちのために、神の御前に私たちが義とされる業、愛の業をキリストが行ってくださったからです。どのように生きるのかといえば、キリストを信じて生きるのです。これこそ、私たちに求められている生き方であるのです。