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2026年9月27日 礼拝説教 「私の救い主」

旧約聖書 イザヤ書 42章1~4節
新約聖書 マタイによる福音書 22章41~46節
説教題 「私の救い主」
説教者 後登雅博 牧師

音声のみもあります

マタイ22:41〜46 「私の救い主」 イザヤ書42:1〜4  2026.9.27

 イエス・キリストは「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」とファリサイ派の人々に向かってお尋ねになりました。ファリサイ派の人々に向けられた問いかけですが、私たちにも同じように問われていると考えて良いことです。私たちはキリストの問いかけに、どのように答えるでしょうか。
 私たちも問われていますので、何が問われているのかを考えておく必要があります。まず「メシア」という言葉です。メシアとはヘブライ語の表現です。油注がれた者、という意味です。油ですが、今で言う香水のようなものをイメージしていただくと良いでしょう。旧約聖書の中では、油を注がれた人が王として任職されています。また王の場合に比べると少ないのですが、祭司や預言者に油が注がれる記述もあります。油注がれた者とは、神によって選ばれ、任職された人と考えて良いでしょう。
 メシアとは、ヘブライ語の表現であると申しました。マタイによる福音書はギリシア語で書かれています。新共同訳聖書は、ギリシア語で書かれているものをここではヘブライ語に置き換えて「メシア」と翻訳しているのです。
 メシアと翻訳されたギリシア語は「クリストス」です。すなわち、キリスト、救い主という言葉です。「クリストス」というギリシア語の単語をわざわざヘブライ語に置き換えて「メシア」と訳しています。なぜなら「キリスト、救い主」と訳してしまうと、キリストが問われたことのニュアンスが伝わらないからです。そしてキリストがファリサイ派の人々に向かって語られた時にも、「キリスト、救い主」という表現ではなく「メシア、油注がれた者」と表現されたと考えられるからです。
 キリストは今、救い主である御自身のことをどう思うか、と問いかけておられるのではありません。イスラエルで昔から言い習わされてきた「メシア」のことをどう思うか、と問うておられます。
 ファリサイ派の人々だけではありません。当時の一般的なイスラエル人は、イスラエルを苦しめる者から解放してくださるメシア、油注がれた者が来られると期待していました。人々は、イスラエルが苦境の中にある時に、神から遣わされたメシアが来て自分たちを救い出してくれると信じていました。
 当時の人々はメシアをどのように受け止めていたのでしょうか。キリストの問いかけとキリストへの返答から窺い知ることができます。キリストはこのように問うておられました。「(メシアは)だれの子だろうか。」ファリサイ派は「ダビデの子です」と答えます。当時、新約聖書はまだありません。ですから、彼らは旧約聖書に基づいて答えています。今問われているのは「クリストス」のことではなく、「メシア」のことです。ですから、「ダビデの子です」という答えになります。人々が考えるメシアは、ダビデの子孫です。つまり、ダビデのような英雄です。そして、当然の如く人間です。
 そしてこの答えも決して間違っているとは言えません。マタイによる福音書はイエス・キリストの系図から始まります。マタイによる福音書1:1は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。マタイが記した系図は、キリストがダビデの血筋に当たることを示しています。
 ファリサイ派の人々が「ダビデの子です」と答えるであろうことを見越して、キリストは問われたのです。そのように答えるのが、当時の一般的な答えだったからです。そしてキリストも、メシアがダビデの血筋を引く者として誕生されることを否定してはおられません。
 その上で、さらに問われるのです。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。」ダビデはメシアを「私の主」、自分よりも優れた御方であると告白しているではないか。これはどう言うことだろうか。と、問われたのです。
 神が遣わされるメシアは、単なる人間ではありません。そのことをダビデは、神の霊に促されて告白したのです。:44「『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」これは詩編110編からの引用です。:44に出てくる最初の「主」は、主なる神のことです。私たちの理解で言えば、父なる神です。そして次に出てくる「主」がメシアのことです。
 :45でキリストが言われたように、ダビデはメシアのことを「主」と呼んでいます。ダビデにとってメシアは「主」と呼ぶに相応しい存在です。先ほどからメシアのことを「主」と呼んでいますが、詩編110編のヘブライ語を確認しますと「アドナイ」という言葉です。これは「我が主」と訳せます。繰り返しになりますが、ダビデがメシアを「我が主」と告白しています。
 キリストが言われたことは、人々が期待していたメシアは、ダビデの子孫であるというだけではないということです。まさに「我が主」と呼ぶべき御方です。私の神、私の救い主である御方なのです。
 キリストが言われたことを受けて、もはや誰一人言い返すことができなくなりました。これはどういうことでしょうか。単純に言えば、キリストが言われたことにファリサイ派の人々が圧倒されたということになります。それでは、キリストの言われたことがどのように彼らを圧倒したのでしょうか。
 ファリサイ派にしても、イスラエルの人々にしても、彼らが求めていたメシアは、ダビデの子でしかありませんでした。言い換えますと、人間に過ぎないメシアです。ですから、人々がメシアに求めていたことも、人間的なことに過ぎなかったのです。
 ファリサイ派の人々は、ヘロデ派やサドカイ派とは異なります。ファリサイ派はイスラエルがローマ帝国に支配されていることを快く思っていません。一般のイスラエルの人々も、ファリサイ派と同じように考えていました。そのような人々がメシアに期待したのは、あくまでもイスラエルを異邦人の支配から解放してくれることです。ダビデのように、イスラエル王国を立派な国にしてくれる王を求めていたのです。人々が求めるメシアは、自分たちのために国を建てあげてくれる人です。消極的な言い方になりますが、自分たちの願望を都合よく叶えてくれる人。自分たちが利用できるような、役に立つような、そういうメシア期待でしかなかったのです。
 キリストは、当時の人々の一般的なメシアに対する期待を打ち砕かれたと言えます。そしてそれだけでなく、正しいメシア理解もお与えになりました。人々を真実に救うメシアは、主なる神に並ぶ権威を持っておられるのです。だからこそ、真実に人々を救う力もあります。そして、メシアなるキリストの救いは、政治的な解放でも、武力による解放でもありません。そのような解放は、詰まるところ政治的な行き詰まりや、さらに大きな武力によって押さえつけられてしまうことでしょう。キリストの救いはそのような、かりそめの救いではないのです。
 「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」とキリストから問われて、誰もが口をつぐんでしまいました。キリストの聖書理解に驚かされたからです。そして、自分たちのメシア理解をただされて、言い返せなくなったのです。
 ここで考えておきたいことがあります。キリストは、ファリサイ派の人々をやり込めようとして、メシアのことをお尋ねになったのでしょうか。ファリサイ派だけではありません。サドカイ派にヘロデ派。祭司長、長老、律法学者。ありとあらゆる立場の人が、イエス・キリストに対抗して、この御方を陥れようとしました。キリストはその度に、彼らと対決せざるを得ませんでした。そう考えますと、キリストの方から彼らに向かって問いを出されたのは今日のところが最初で最後と言っても良いかもしれません。23章になりますと、キリストのファリサイ派、律法学者に対する非難の言葉が長々と続きます。そうであれば、キリストは彼らにうんざりして、対決を終わらせるために今日の問いを出されたと言えるかもしれません。事実、この日を境に、もはやあえてキリストに質問する人は居なくなりました。
 しかしながら、キリストの問いはメシアに関することでした。メシア、救い主についてお尋ねになったのです。メシアとはいかなる御方でしょうか。メシアとは、誰のことでしょうか。この問いは、まさに私たちの救いに関する決定的な問いです。
 最初に申し上げました。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」とは、私たちも問われていることです。キリストの問いかけに対して、私たちは自分の言葉で答えなければなりません。
 イエス・キリストですが、私たちが正しく答えられるように、身をもって示してくださいます。ファリサイ派の人々は、すっかりキリストにやり込められてしまったとほぞを噛んだだけかもしれません。しかしキリストは、まことの救い主として、この後十字架へと向かっていかれます。人々が期待していたメシアは、ダビデのような英雄です。その体で言えば、キリストが人々の期待に沿うことはありませんでした。しかしながら、十字架に架けられているキリストに、私の罪の裁きを見ることができるなら、その人は神の国から遠くないのです。キリストの問いかけを、私をやりこめる言葉として受け止めないようにしたいのです。
 最後に、イザヤの言葉をもう一度読んでおきます。イザヤ書42:3「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」キリストは弱ったものを支えてくださるのです。ここで言われる「裁き」とは、誰かの罪を指摘することではありません。その罪を赦して、無罪であると宣言することです。「裁き」という言葉は、正義の「義」という意味のある言葉だからです。
 キリストが私たちの罪の裁きを引き受けてくださいました。そうして、私の罪が赦されています。この御方こそは、私の救い主であるからです。「イエス・キリストこそは我が主、救い主」と告白したいものです。この告白こそ、キリストが私たちに求めておられることであり、真実に、私たちの救いを約束する告白となるからです。
 

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