2026年7月19日 礼拝説教 「神の熱意」
旧約聖書 イザヤ書9章6節
新約聖書 マタイによる福音書21章12~17節
説教題 「神の熱意」
説教者 後登雅博牧師
音声ファイルのみ
マタイ21:12〜17 「神の熱意」 イザヤ書9:6 2026.7.19
イエス・キリストと言えば、憐れみと慈しみに富む御方であると信じています。今までもそうでしたが、悪霊に憑かれていた人や、病に苦しむ人を解放してくださいました。罪人と呼ばれる人とも親しく交わり、近寄ってくる子どもを退けることはなさいません。先週も、「柔和な王」と題して御言葉を読んだばかりでした。
しかしながら、本日のキリストは怒りを隠そうとはされません。:12「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」怒り狂うキリストの姿に呆然としてしまいます。これは一体どういうことでしょうか。いや、キリストと父なる神とは一つです。旧約聖書に出てくる神は、しばしば怒りを示すではありませんか。とすれば、怒るキリストこそが本来の姿、父なる神を表していると言えるでしょうか。
旧約聖書の神を怒る神、裁く神と考える方もあるでしょう。しかし私にとりましては、旧約聖書の神も怒る神とは思っていないのです。ですから、父なる神とキリストとが一つであると言う時、父なる神もキリストも、私にとっては憐れみと慈しみの神です。神が怒るとするなら、それは止むに止まれぬというか、正当な理由があるはずです。それではどうして、今日のキリストは激しく怒っておられるのでしょうか。このように怒るキリストは、それでも憐れみの神なのでしょうか。
先ほど:12を読みましたが、ここに当時のイスラエルが描かれています。神殿の境内で商売をしている人たちがいますが、それは必要に迫られてのことでした。ちなみに「神殿の境内」とありますのは、「異邦人の庭」と呼ばれる場所です。ここは異邦人でも入ることができる場所です。さらにここから先には、婦人の庭、イスラエル人の庭、祭司の庭があります。奥に進むほどに、入ることができる人が限られていきます。
さて、異邦人の庭はエルサレム神殿で言えば一番外側です。そこで商売がなされているのを見て、キリストは憤られました。そして商売人たちを追い出されます。確かに彼らは神殿のある場所で商売をしていましたが、それらの商いを必要としていたのはエルサレム神殿に来る人たちです。
まず両替人です。神殿に献げるお金は、昔ながらのイスラエルの通貨でなければなりませんでした。そのため、外国から巡礼に来た人は自国のお金を両替する必要がありました。またそもそも、イスラエル国内でも様々な貨幣が流通していました。イスラエルは絶えず諸外国の支配を受けまして、様々な種類の貨幣が流通していたからです。
そして鳩を売る者ですが、彼らは神殿で献げるための傷のない鳩を商品としています。遠方からエルサレムまで来る人もいます。そういう人が献げ物にする動物を引いて来るのは大変です。献げ物となるのは鳩だけでなく、牛や羊の場合もあります。神殿で神に献げるための動物ですから、傷がない清い動物でなければなりません。傷がない献げ物であるかどうかは、祭司が認定しました。そのため献げ物にする動物を売る商売が成り立ちます。これらの商売人は、エルサレム神殿に参る人のために必要な存在だったと言えます。
しかしキリストは言われます。:13「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」神殿は、神を崇めるための聖なる場所です。それが商売をする場所になっていると、キリストは憤られました。キリストが怒るのは分からないでもありません。しかしながら、両替人も献げ物にする動物を売る人も、人々の必要に応えるためにありました。キリストもそういう事情をよく知っておられます。その上で、両替人たちを追い出されました。これはよほどのことです。
神殿でこのような商売ができたのは、許可する人がいたからです。すなわち、神殿に仕える祭司がそれです。神に仕える立場にある人が、人々の信仰心を利用して金儲けをしています。だからこそ、キリストは激しく怒りを露わにされました。キリストは今、神を第一とする者たちから裁きが始まることを示されたのです。キリストがなさったのは、神の怒りと裁きを象徴的に示す行為でした。
神の裁きを示す一方で、神が本当に求めておられることをキリストは行われます。:14「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」キリストは目の見えない人、足の不自由な人を癒されます。目の見えない人、足の不自由な人はイスラエル人であっても、神殿の中に入ることができませんでした。(サムエル記下5:8)
これらの人は、巡礼のために神殿に来る人から施しを求めていたようです。そこでキリストは、これらの人が期待した以上のことをなさいます。施しではなく、癒しを与えてくださいました。体が癒やされたということは、この人たちは神殿の中に入ることができるようになったということです。言うなれば、神を礼拝することができるようになったのです。
キリストはただの柔和な方ではなく、怒るだけの方でもありません。まことに憐れみ深い御方と言えます。神から遠ざけられていた人たちを、神のもとへと導き出してくださるのです。私たちが今礼拝を献げているのも、イエス・キリストからの招きがあるからです。自分自身を見つめるならば、神の御前に出ることはかなわないと思うこともあります。そのような時に、私たちはキリストのもとに行くのです。キリストは、この私たちを受け止めてくださるからです。罪人と呼ばれる人も、幼子も、目の見えない人も、足の不自由な人も、キリストから退けられることはありません。この御方こそ、憐れみと慈しみに富む神の御子であるからです。
ところが祭司長、律法学者たちはそうではありません。:15「他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て」祭司長、律法学者たちはキリストがなさった癒しの奇跡を見ています。それなのに少しも心を動かされることがありません。それどころか、子ども達が「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いて腹を立てます。
「ダビデの子にホサナ」とは、救い主バンザイ、という呼びかけです。人となられたキリストを、子ども達は救い主だと讃美しました。これに祭司長、律法学者が腹を立てるのはある意味当然です。彼らにすれば、人間をイスラエルの救い主、メシアだと言うことになるからです。人間を神とするのですから、神を冒涜していることになります。
いや、私たちにとりましては、「イエスは主なり」と告白することは正しくキリストを崇めることになります。イエス・キリストこそは人間となられた救い主、まことの神だからです。私たちが「ダビデの子にホサナ」とキリストを賛美するなら、それは正しいことです。しかし祭司長達からすれば、ただの人間に向かって「メシア、救い主」と呼びかけていることになります。彼らは神が唯一であると信じています。しかしキリストが神の御子であると信じることができません。祭司たちには、人々から賛美されるキリストは、神を冒涜しているとしか思えないからです。
ここに、決定的な救いの分かれ道があります。すなわち、イエス・キリストを何者と告白するかで、進む道が大きく分かれます。「イエスは主なり」との告白は、救いを与える告白です。そしてその告白は、まさに神が私たちに与えてくださる告白です。神こそが、私たちに救いの告白をさせたいと願っておられます。ここに神の熱意があります。
イエス・キリストは言われます。:16「イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」」キリストは詩編8編を引用して、祭司たちを論駁されます。子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と口にしたのは、神がそのようにされたからです。どうして子どもたちが、キリストを賛美したのでしょうか。本来、神を礼拝すべき人たちが、この場合は祭司たちが、正しく神を礼拝していなかったからです。
祈りの家となるべき神殿が、人を分け隔てする場所となっていました。ユダヤ人かそれ以外か。ユダヤ人でも男性か女性か。ユダヤ人の男性でも目が見えない人、足の不自由な人を排除していました。そして当然のように、聖所に入ることができるのは祭司だけでした。
しかし今や、イエス・キリストを信じる人は区別されることはありません。ガラテヤの信徒への手紙3:28に、次のように書いてあります。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
どうしてキリストは、怒りをあらわにされたのでしょうか。キリストが今日なさったことですが、「宮清め」と呼ばれることがあります。キリストがなさったことは、いわば、神殿における礼拝を終わらせることです。
私たちが礼拝を行うときに、動物犠牲を献げることはありません。イエス・キリストが御自身を、全く傷のない小羊として献げられたからです。キリストの十字架によって、完全に罪のための贖いが完了しました。もはやキリストを信じる人は、自分の罪の償いのために鳩も羊も牛も献げる必要はありません。
そもそも神は、人間が建てた神殿のようなものに住まわれません。そうではなく、キリストを信じる私たちを神の宮として、私たちの中に住まわれます。コリントの信徒への手紙一3:16〜17「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
キリストが私たちを、聖霊の住まわれる神殿としてくださいました。これこそ神の熱意のなせる業です。自分ではとても神の目に叶うものではないと思ってしまいます。しかしその私たちを神は丸ごと受け止めてくださいます。そしてキリストを遣わし、人間の献げ物ではない、神の小羊によって罪の償いを完成してくださいました。これらのことを信じることができるのは、聖霊の働きによることです。神の御業が自分に働いていることを疑わず、救いを与えようとされる神の熱意を受け止めましょう。神が私たちを礼拝へと導いてくださいました。神は怒る神、裁く神ではなく、私たちに救いを与えてくださる神です。
私たちは今日も、「イエスは主なり」と告白して、神を褒め称えます。神が私たちの口に、賛美を歌わせてくださるからです。神こそが熱意を持って、キリストにある救いへと私たちを招いておられます。