2026年7月12日 礼拝説教 「柔和な王」
旧約聖書 ゼカリヤ書 9章9~10節
新約聖書 マタイによる福音書 21章1~11節
説教題 「柔和な王」
説教者 後登雅博 牧師
音声ファイルのみ
マタイ21:1〜11 「柔和な王」 ゼカリヤ書9:9〜10 2026.7.12
イエス・キリストがエルサレムに入って行かれる場面です。教会ではこの箇所を特に選んで読まれる日があります。棕櫚の主日と呼ばれる日です。キリストの復活を祝うイースターの一週前の主の日です。棕櫚の主日から、キリストの十字架を特に覚える受難週が始まります。
今日は棕櫚の主日ではありませんが、マタイによる福音書を続けて読んできて、ここまで来ました。キリストがエルサレムに入城されます。いよいよ、キリストの生涯と働きの佳境に差し掛かったと言えます。キリストは私たちの救いのために、エルサレムまで来られたからです。この時のためにこそ、キリストは人となられたと言えるからです。
キリストはエルサレムに入って行かれます。ここに記されている通り、キリストは人々から喜びを持って迎えられました。しかしこの週の金曜日には、十字架につけられてしまいます。人々の変わり身の早さに驚きます。そしてキリストも、十字架で殺されてしまうことを重々承知の上で、エルサレムまで来られたのでした。人々の熱狂を受けている方が、静かに見つめておられるのは十字架です。キリストは私たちのために罪の裁きを受けようとしておられます。このことを私たちは心に留めておくのが良いでしょう。キリストは人々の歓声を受けながらも、浮き足立ってはおられません。
キリストはエルサレム入城に際して、ロバを連れてくるようにされます。キリストは、他人のロバを引いてくるように弟子たちに言われます。キリストは自前のロバを持っておられないからです。キリストはそれほど豊かではありません。それでも、この世の財産を持っていない方は、この世を治めておられます。
弟子たちは、他人のロバを勝手に引っ張ってこなければなりません。これは盗みを働くようなことです。きっと誰かに、何かを言われるに違いありません。しかし「主がお入り用なのです」と言えば、すぐに渡してもらえます。
学者はこの出来事を何とか合理的に説明しようとします。ロバの持ち主とキリストは知り合いで、あらかじめ打ち合わせがされていたのだと説明します。しかし、そのような説明が不合理です。そういう打ち合わせがあったなら、キリストが初めからそのように言われるはずです。「もし、だれかが何か言ったら」とは、トラブルになった場合の対処として言われたのです。初めから話がついているなら、必要のない指示です。
事実としては、ロバを連れて行こうとした弟子たちは咎められました。そこで「主がお入り用なのです」と言うと、許してもらえました。マルコやルカによる福音書には、そのようなやりとりのあったことが記録されています。ところがマタイは、弟子たちがロバの持ち主から何か言われたことを記録していません。
マタイの描くキリストには、そのような描写は不必要だからです。なぜならマタイの記すキリストは、圧倒的な力を振るわれる王だからです。この方は何も持っていないように見えますが、しかし全てを治めておられます。キリストに遣わされていく弟子は、何も言わずとも王の命令を果たすことができます。王なるキリストの権威の故です。
ちなみにマルコによる福音書では「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言わせています。しかしマタイでは、「すぐここにお返しになります」とさえ、言う必要がありません。実際のロバの持ち主がロバの主人ではなく、キリストこそがロバの持ち主だからです。まことの主人は、自分が望む時に望むものを自由にすることができます。そして私たちもまた、キリストが私たちの主人であるのです。私たちもまた、主なるキリストに用いられて、主の御用をします。主人であるキリストは、自分の手にあるものを慈しんで、大切にされます。ですから、キリストが主人であるとは誠に幸いなことです。
さて、キリストがロバを求めたのは、聖書に書いてあることが実現したからです。:5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」これは本日読みましたゼカリヤ書9:9からの引用です。「シオンの娘」とは、神の都エルサレムのことです。エルサレムを治める王が、ロバの子に乗ってこられます。ゼカリヤの預言していたことが、キリストにおいて実現しました。順序としては預言が先にあり、その預言が実現したことになります。しかしよくよく考えれば、キリストのなさることが先に決まっていたと言うべきです。預言者は、神が語れと言われたことを語るからです。つまり、神の計画が預言者に示されるからです。
神が、ロバに乗る王を私たちのために備えてくださっていたのです。キリストは、全てのものを治める権威ある王です。しかしこの王は、近づき難い権威を帯びているにも関わらず、私たちをみそば近くに引き寄せてくださいます。私たちと共にあることを喜んでくださいます。罪人と言われる人を招き、子どもたちが近くに来るのを拒むことはありません。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる」王の方から、私たちのところへと来てくださいます。キリストが私たちのところに来られるのは、私たちのことを心にかけておられるからです。具体的には、私たちの罪を赦すためです。罪の支配から解放し、神の救いに入れるためです。
キリストはロバに乗る王です。王がロバに乗るとは、妙な姿だなあと思われるでしょうか。実はイスラエルに馬が入ってきたのは、ソロモン王の時代です。ですからソロモン以前の王、ダビデも馬には乗っていません。ダビデが乗ったのはロバではなくラバでしたが、ともかく馬ではありませんでした。イスラエルではロバに乗る王というのは、由緒正しい王の姿でもあるのです。
キリストは権威を持ってロバに乗られます。そして権威あるだけでなく、ロバを用いることで柔和なことも示されます。争いではなく平和を求める姿を示しておられます。ゼカリヤ書9:10「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」ゼカリヤ書には、この方が戦いを終わらせることが記されています。王のなさることは、争いを始めることではなく終わらせることです。これが現代の為政者と大きく異なる点です。キリストは平和の王です。
キリストが終わらせる戦いとは何でしょうか。それは罪との戦いです。あるいは、悪魔との戦いと言っても良いでしょう。アダムの堕落以後のことです。人類は罪ある者となりました。キリストはその罪のために来られました。
私たちは神の戒めを守らなかったのですから、神の裁きを受けなければなりません。私たちが受けるべき裁きを、キリストは私たちに代わって受けられます。それだけではありません。キリストは神の戒めを完全に守られました。私たちに代わって、神の義を獲得されました。キリストが獲得された義のゆえに、私たちも義なる者とされます。キリストが罪も死も打ち破って復活されます。キリストと同じように、私たちも復活させられます。私たちと罪との戦いは、キリストによって終わっています。
平和の王、勝利の王に向かって人々は叫びます。:9「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」「ダビデの子」とは、王という意味です。ダビデがイスラエルの偉大な王だからです。人々はロバに乗るキリストに、ダビデ王の姿を見ています。キリストをダビデに連なる王と考えるのは、間違ったことではありません。キリストもまた、人々から「ダビデの子」と呼ばれることを受け止めておられます。しかしそれでも、人々が求めるダビデのような王とキリストとは違う、と言わなければなりません。人々が求めていた王は、武力を持ってイスラエルを解放してくれる王です。
当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配を受けていました。ローマの支配から抜け出すことは、人々の悲願でした。キリストがローマの支配から解放してくださる王かもしれない、と人々が期待したとしても非難することはできません。これは人々の切実な願いだったからです。そして事実、キリストには権力者をものともしない風格があったからです。
キリストは、人々から期待を受けていることがわかっているはずです。それなのにキリストは、人々の期待が間違っていると否定されません。そればかりか、あたかも人々の期待に応えるかのように、人々の叫びを受け止めておられます。どうしてでしょうか。キリストは全てをご存知だから、と言うのが良いでしょう。つまり「ダビデの子にホサナ」と喜び迎える人々が、金曜日には「十字架につけろ」と叫ぶことを知っておられるからです。それでもこの御方は、まことの王としてエルサレムに入らねばならないのです。
まことの王が、私たちの罪のために十字架にかけられます。そのようにしてしか、私たちの罪の裁きをなし得ないからです。手のひらを返すようにして、「十字架につけろ」と叫び出す人々。その罪の故にこそキリストは十字架にかかられ、その罪をキリストは打ち破ってくださいます。私たちの罪の最も色濃く現れるところで、その罪を打ち滅ぼしてくださいます。
キリストは「十字架につけろ」と叫ぶ人々の罪を受け止め、その罪を神の御前で裁き、その罪の棘を引き抜いてくださいます。
キリストはどこまでも柔和な王として、私たちを責めることなく、私たちの罪を滅ぼされます。後になってから、自分の罪がキリストを十字架につけたことを知らされます。その時、私たちは初めて深く自分の罪を悔いることになります。
キリストの救いは、武力によるのではありません。私たちを締め上げ、自己嫌悪に陥らせ、闇の中に置き去りにし、それから勿体ぶって救いの手を伸ばすというのではありません。人を不安にさせておいて、救いがあるかのように示すのは異端者が取るやり口です。キリストはそうではありません。私たちが自分の罪に全く気づいていない時に、すでに私たちの罪を肩代わりしておられたのです。
キリストは十字架の死に至るまで、低くなられます。そのため、この御方が全てを治めるまことの王とは見えないかもしれません。武力で治める王の方が力強く、頼もしく見えるかもしれません。しかし柔和なキリストでなければ、人を救うことができません。この世の力ある者は、弱っている人、小さくなっている人を蹴散らすばかりです。しかしキリストは、傷つき低くなっている人のところにまで来てくださいます。そして、弱っている人と共に、その弱さを担ってくださいます。キリストは私たちの弱さを知り、私たちの罪をも背負ってくださるからです。この御方の前では、自分の弱さも罪も曝け出して良いのです。その罪のために、十字架にかかってくださるからです。キリストは、罪に悩む私たちを心にかけてくださる柔和な王だからです。