2026年7月5日 礼拝説教 「今は見える」
旧約聖書 イザヤ書 30章18~21節
新約聖書 マタイによる福音書 20章29~34節
説教題 「今は見える」
説教者 後登雅博牧師
音声ファイルのみ
マタイ20:29〜34 「今は見える」 イザヤ書30:18〜21 2026.7.5
本日は、キリストがなさった奇跡について読みました。奇跡ですから、神が特別に働いてくださった出来事と言えます。奇跡とは、私たちの常識を超えたところで起こります。奇跡はそれほど頻繁に起こることではありません。それだけに、奇跡に接することができたなら、それは大いに喜ばしいことです。
しかしながら、目が見えなかった人の目が開かれたという本日の奇跡。聖書をよく読んでいる人には、それほど驚くようなことではないかもしれません。目が見えるようになる奇跡が、福音書の中ではそれほど珍しいことではないからです。
本日の出来事は、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカによる福音書の全てに記録されています。そしてマタイですが、今日の出来事とほとんど同じことを9:27以下でも記録していました。つまり、三つの福音書に四回も出てくる奇跡です。さらに言えば、目が見えない人が癒される記録は他にもあります。もちろん、ヨハネによ福音書にも出てきます。同じような奇跡について何度も読みますと、なんとなく有り難みがないような、なんだかありふれた奇跡のように思えてくるのです。
ありふれたことや自分に関係のないことに注意を向けなくなるのは普通のことです。しかし聖書に記されているのは、私たちに関することです。神は御言葉を通して私たちに語っておられるからです。目の見えなかった人が見えるようになったという奇跡。これは私たちの物語であり、私たちの姿です。
今日の出来事ですが、キリストと弟子たちがエリコの町を出たところで起こりました。エリコからエルサレムまではおよそ一日の道のりです。エルサレムが近くなったところで、二人の盲人に出会いました。盲人たちですが、マルコやルカには物乞いであったと書いてあります。今から2000年前のイスラエルです。目が見えないことは大きなハンデとなりました。通常の仕事に就くこともできなかったようです。
この人たちはキリストが通ると聞いて叫び出します。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」二人の人が必死になって叫んでいます。かなり大きな叫び声だったことでしょう。こういう時の人々の反応ですが、大抵冷たいのです。声に耳を傾けることもなく、黙らせようとします。誰一人、キリストに取りつごうとする人もいません。しかし、キリストにも叫び声は届きますから、二人はキリストに呼ばれることとなりました。
キリストは「何をしてほしいのか」と問われます。二人が何を求めているのか、キリストに分からないはずがありません。二人は貧しい物乞いですが、金銭を求めていないことはキリストには分かっています。そもそも、キリストもお金持ちではありません。
「何をしてほしいのか」と問われて二人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えます。二人の盲人ですが、キリストに向かって終始「主よ」と呼びかけています。これは共観福音書の中ではマタイだけが記録していることです。マタイによる福音書で「主よ」という呼びかけは、信仰者による呼びかけです。イエスは主なりと盲人は告白していたのです。
キリストは盲人たちの求めに応えて、彼らの目が見えるようにしてくださいました。いや、彼らが求めた以上のことをキリストはしてくださいました。
二人の盲人は「憐れんでください」と叫びました。この叫びは、聖書では苦しみの中にある人が神を求める一般的な言葉です。その叫びに対して:34です。「イエスが深く憐れんで」とあります。日本語では同じですが、ギリシア語では別の単語になっていました。キリストの憐れみは、「はらわたがよじれる」という意味の言葉です。自らの体が痛むほどの深い憐れみであり、通り一遍等の同情ではありません。キリストは、この世で周辺に追いやられ、小さくされている人に深く心を寄せてくださるのです。我が事のように心を痛められるのです。
キリストは深く憐れんで盲人の目を開いてくださいました。見えなかった人の目が見えるようになりました。聖書ではありふれた奇跡かもしれません。しかし当人にすれば、とてつもなく大きな奇跡です。そして今日の奇跡ですが、単に目が開かれたという以上の出来事です。何と言いましても、「主よ、憐れんでください」との求めに応えて、キリストがその心を深く震わせて下さったからです。それは、キリストのはらわたが現実に痛むほどのことでした。キリストは今日も、悩める人の痛みを自分のことのように受け止めてくださいます。
そして今日の奇跡について、まだ言わなければならないことがあります。二人の盲人ですが、「主よ、目を開けていただきたいのです」と願いました。この求めに対しても、キリストは彼らの求め以上のことをされました。
二人の人は、肉体の目が開かれることを願いました。そこでキリストは、彼らの目を開いてくださいました。そして肉体の目が開かれるに留まらず、いわゆる心の目をも開いてくださったのです。マタイは注意深く:33と:34で、「目」を意味する単語を使い分けています。キリストは肉体の目を開けてくださいという求めに応え、さらにそれ以上のこと、心の目を開いてくださったのです。つまりキリストは、彼らの目を開くだけでなく救いもお与えになったのです。心の目が開かれた二人は、目の前にいる方こそ主なるキリストであるとわかりました。そして彼らは、キリストの弟子となりました。キリストの弟子となること。これも彼らが求めた以上のことでした。
盲人たちは「主よ」とキリストを求めていました。「主よ」と呼び求める人を、キリストがお見捨てになることはありません。「主よ」と求める人の心の目を開き、救い主キリストが見えるようにしてくださいます。これは私たちの姿であり、私たちの物語です。
私たちの肉体の目は、前から見えていたかもしれません。肉の目で世界を見ている時、私たちの有り様はどうだったでしょうか。目に映る出来事に一喜一憂していたのではないでしょうか。喜ばしいことがあります。また、悲しいこともあります。人生はこんなもんだと、あまり深く受け止めることもありませんでした。
そんな私たちがある日、キリストに出会います。すると世界というものは、私の人生というものは、もっと素晴らしいものだと知らされます。世界は神が造られたのであり、私は神の愛を受けて生きているからです。キリストに出会うまでの世界はモノクロでした。それが今は、世界は鮮やかな色を持っています。いや、世界がバラ色に見えるとは言いません。世界には今なお多くの悲しい出来事があるからです。しかしその世界には、必ずや神の善き計画があると信じるのです。神が世界を栄光の舞台にしてくださると信じるのです。悲しいことがあっても、希望までは失いません。
目が開かれた二人は、キリストに従っていきます。キリストは今、エルサレムを目指しておられます。キリストはエルサレムで十字架にかかられます。目の見える二人は、十字架にかけられるキリストを見ることになるでしょう。
彼らは「こんなことなら目が見えないほうが良かった」と思ったでしょうか。いやいや、そんなことはないはずです。十字架のキリストを見て、深く悲しんだことでしょう。しかし彼らが見るのは、十字架のキリストだけではありません。三日目に死から蘇る復活のキリストをも見ることになるのです。
キリストはエルサレムに行かれます。十字架にかかるためです。しかし、私たちを悲しませるために十字架にかかられるのではありません。むしろ、私たちを悲しみから救い出すためです。どんなに人生に辛く悲しいことが起こっても、それが全てではないと示すためです。悲しみから立ち上がり、なおも希望のあることを見ることができるようにするためです。
これから主の晩餐に与かります。聖餐に与かる方はもちろん、まだ手にすることができない方々も配られるパンと杯に目を留めていただきたいのです。キリストが十字架にかかられたことを示すからです。そして、キリストが自らの肉体を裂いてまで、私たちと新しい契約を結び、永遠の命を約束してくださったからです。心の目が開かれ、主イエス・キリストを見るなら、その人はキリストの弟子です。その人は確かに、命を得ているのです。