2026年7月26日 礼拝説教 「キリストは祈る」
旧約聖書 詩編 67編17~20節
新約聖書 マタイによる福音書 21章18~22節
説教題 「キリストは祈る」
説教者 後登雅博 牧師
音声ファイルのみ
マタイ21:18〜22 「キリストは祈る」 詩編66:17〜20 2026.7.26
イエス・キリストは言葉と行いにおいて力のある御方です。この方の言葉に偽りはありませんし、この方のなさることは私たちを力強く押し出してくださいます。
今日の箇所は、マルコによる福音書によれば月曜日、火曜日と二日にわたる出来事となっています。キリストがエルサレムに入城された次の日、いちじくの木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(マルコ11:14)と言われました。これが月曜日のことです。するとその次の日、火曜日に、いちじくの木が根元から枯れていました。マルコの記録が事実で、マタイはマルコの記録を編集したと思われます。私たちはマルコによる福音書の記録も参考にしながら、マタイによる福音書を読むことにします。
ところで「いちじくの木を呪う」というこの箇所の小見出しは、ちょっと違うなと思います。今日の箇所はいちじくが枯れたことが中心ではなく、祈りのことが中心だからです。
:18「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。」マタイは何気なく書いていますが、「都に帰る」とあります。都とはエルサレムです。エルサレムまで来られたキリストは、ベタニアを宿としておられました。朝早くベタニアからエルサレムに向かうのですが、それをマタイは「都に帰る」と表現しました。キリストこそはまことの王であり、神殿のあるエルサレムに住むべき御方であると考えているからです。
朝の早い時であり、キリストは空腹を覚えておられます。ゆっくり食事を摂る間もなく、キリストはエルサレムに向かいます。神殿の境内で人々を教えるためです。キリストは自分のことを後回しにして、人々のために活動されます。
するとそこに、一本のいちじくの木がありました。道端に立っています。これは誰かが育てているいちじくではなく、自然に生えた木であると思われます。キリストは空腹であったこともあり、実がなっていないかと探してみます。ところがいちじくは実っていませんでした。ちなみにマルコによれば、「葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである」(11:13)と書いてあります。実がついていなくて当然だったのです。
ところがキリストは言われます。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」実のなる季節ならまだしも、そのような季節ではありません。これはちょっとひどいなあと思います。キリストは空腹でもあり、腹立ち紛れにひどいことを言われたのでしょうか。もちろん、そうではありません。キリストの言葉に従って、いちじくの木が枯れてしまったからです。これは神の定めておられることを目に見えるようにする象徴行為です。いちじくの木が枯れるこの象徴行為は、何を見えるようにしたのでしょうか。
ここでキリストは、裁きが見えるようにされました。では誰を裁くのでしょうか。実のならないイスラエルです。いちじくの木は、ブドウの木と並んでイスラエルを象徴する果物です。イスラエルは実をつけていません。葉は茂っていますが、神に対して実りがありません。そのため、イスラエルは裁かれることになります。このことを枯れたいちじくの木は見せています。
さて、イスラエルに実がついていないとはどういうことでしょうか。端的に言えば、救い主を受け入れないことです。先週の宮清めの場面もそうです。祭司長や律法学者という神を第一とすべき人たちが、キリストを神と信じることができません。そしてついには、十字架につけることになります。
イスラエルは選びの民です。本来であれば、神を信じるとはどういうことかを他の人々に見せる必要があります。それなのに、神を正しく礼拝すべき祭司たちが、神殿を金儲けの場所にしていました。自分たちだけが選びの民で、他の人は汚れた民、異邦人であると区別しました。そうして、礼拝の場である神殿への入場を制限します。
キリストはそのようなイスラエルをお裁きになります。人々を神の恵みから遠ざけているからです。ここでキリストは裁かれますが、それでも憐れみをお忘れにはなりません。キリストは裁かれますが、憎らしくて裁くのではありません。あくまでも、救いを得させるためです。
今日の箇所では、いちじくが枯れてしまいました。驚いた弟子たちは「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と尋ねます。いちじくが枯れた理由を弟子たちは聞きました。キリストは「裁きのためである」とお答えにはなりません。キリストはイスラエルが裁かれることを示されましたが、キリストが願っておられるのは裁きではないからです。あくまでも救いです。
ですからキリストは言われます。:21「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」いちじくの木に起こったことが裁きの象徴ではなく、祈りが聞かれるしるしに変わっています。「信じて祈るなら山でも動く」と言われます。
皆さんも、神に向かって必死に祈ったことがあるはずです。どうしても神に叶えていただきたい祈りがあるはずです。私も「山よ動け」と信じて祈ったことがあります。今、祈っていることもあります。祈りつつ、正直に言いますと「この山はちょっと動きそうにないな」と思う気持ちもあったりします。今までに祈ったことの全てが、必ずしもその通りになってきたのではないからです。私たちには、聞かれる祈りと聞かれない祈りがあるのです。今日の箇所で言えば、聞かれる祈りとは、疑わずに信じて祈る祈りとなります。
そこで申し上げたいのです。聞かれることがなかった祈りがあります。それは、私たちの信仰が足りなかったからでしょうか。信仰の足りない祈りもあったでしょう。もしもいい加減な祈りというのがあるとしたら、そのような祈りが聞かれることはないでしょう。でも、そもそもそのような気持ちで祈る祈りは、祈っている人も聞かれるとは思っていないはずです。
しかし、私たちが誰かのために祈る時、家族のことを祈る時、いい加減な気持ちで祈ることはありません。半信半疑で祈ってしまうことはあるでしょう。あまりにも山が大きすぎるので、私の祈りでは、私の信仰では動かないのではないだろうか、と思ってしまうことはあるでしょう。しかし、信じていなければそもそも祈りは出てきません。私たちが祈る時、最後にアーメンと唱えます。祈ったことは真実です、という意味がアーメンです。信仰なくして祈ることはできないのです。キリストの御名によって祈り、アーメンと祈る以上、私たちの祈りは真実であり、真剣です。
それでも、聞かれなかった祈りがあります。それは、神に喜ばれない祈りだったのでしょうか。信仰の足りない祈りだったのでしょうか。そうは思いません。:22「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」これがキリストの答えだからです。キリストの御名によって祈る時、神はその祈りを聞いておられます。祈りが叶ったかどうかで、一喜一憂しない方が良いのです。祈りの通りになったかどうかで、信仰の大きさを計るのではないからです。私たちが信じて祈っていることは、神がよく知ってくださっています。小さな祈り、貧しい祈りというのはあるでしょう。それでも、キリストの御名で祈るならば、空しい祈りはありません。
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」これはキリストの約束です。ここでキリストが約束しておられることは、信じる者の救われることです。いちじくの木が枯れたのは、象徴行為でした。このことが示しているのは裁きであり、悔い改めて救いを得ることです。裁かれて終わってはならないからこそ、あらかじめ見える形で示されます。
キリストが祈れば、即座にいちじくは枯れました。父なる神は、キリストの祈りに即座に応えてくださいます。このキリストでも叶わなかった祈りがある、と言うことは許されるでしょうか。
十字架にかけられる前の夜、キリストはゲッセマネという所で祈られました。マタイ26:39「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」出来ることなら十字架にかからなくて良いようにしてください、と祈られました。もっとも「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とも祈られました。十字架はキリストの願ったことではありませんでした。しかし十字架は、父なる神の御心でした。
「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とキリストが祈らねばならないほどの苦しみが、十字架です。私の願うことではありません、というのがキリストの十字架です。キリストが苦しみながら祈られたのが十字架です。この十字架にかかるために、キリストはエルサレムまで来られました。そして、キリストが十字架にかからなけれれば、裁きは免れないことを示すために、いちじくの木が枯れました。
キリストを受け入れずに裁かれてしまうようなことは、決して神の願うところではありません。キリストが一手に私たちの裁きを引き受けてくださいます。このキリストを信じる時に、救いは得られます。私たちに救いを得させることを願って、キリストは祈られます。キリストが私たちのために救いを祈ってくださっています。キリストの祈りが空しくなることはありません。キリストが祈られた通りに、必ずなるからです。
そして私たちの祈りは小さくても、キリストの御名によって祈るのですから、神が聞いてくださいます。私たちのためにキリストが祈ってくださることを覚えながら、私たちも信じて祈るのです。