2026年9月13日 礼拝説教 「私が復活するとは?」
旧約聖書 エゼキエル書 37章11~14節
新約聖書 マタイによる福音書 22章23~33節
説教題 「私が復活するとは?」
説教者 後登雅博 牧師
音声のみもあります
マタイ22:23〜33 「私が復活するとは?」 エゼキエル書37:11〜14 2026.9.13
復活とは、キリスト教信仰にとってとても大事なことだと私は思っています。復活に私たちの望みがかかっていると考えるからです。キリストを信じる人の復活は、永遠の命が与えられること、神の国に住むことと直結しているからです。そして「復活」と言う以上、死から蘇ることを表しています。復活とは、死を乗り越えていくことを意味しています。
復活の重要性は、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。しかしそれだけに「復活を信じることが難しい」とおっしゃる方もあるのです。私は単純ですから、教会に行くようになってキリストを信じた時、復活もそのまま受け入れることができました。でも人によっては、そうではないのです。次のように言われることがあります。「キリストが誕生されたことも、キリストが十字架にかけられたことも受け入れられるのです。しかし、キリストが三日目に復活されたとは信じられません。」
どうしてだろうかとも思いますが、復活が信じがたいと言われるのも良くわかる気もします。恐らく、自分のことに引きつけて考えておられるからだろうと思うのです。もちろん聖書に書いてあることを、自分に引きつけて受け止めるのはとても大事なことです。
では自分のこととして考える時に、どうして復活が信じにくくなってしまうのでしょうか。復活が、私たち人間の経験したことのないことだからです。人は生まれて、やがて死を迎えます。このことは、誰もがよく知っていることです。自分自身の死を経験したことはありませんが、命に終わりのあることは誰もが経験的に知っていることです。ですから、「キリストは十字架につけて殺された。人として死なれた」と言われれば、そういうことはあるだろうと受け止めることができます。しかしそのキリストが、「三日目に死から蘇られた!」と言われますと、途端に理解しがたいこととなってしまうのです。今までにそのようなことを、人類が体験したことがないからです。私たちの理解を超えることですから、なかなか受け入れがたいのです。まして、「キリストを信じる人は、キリストと同じように復活する。私も死から蘇ることができる」と言われても、おいそれと受け止めることができません。何しろ、私たちは自分の死すら経験していないからです。「私はどのように蘇るのですか。死んだ時の姿で蘇るのですか。それとも、自分が一番元気だった頃の姿になるのですか」と、あれこれ疑問が湧いてくるに違いありません。
はじめに申しましたが、復活はキリスト教信仰の重要な要です。復活を信じるとは、私たちの信仰を抽象的なものにしないためにも大事なことです。信仰とは、単に心の平安を与えるようなことではありません。もっと現実的に、私たちの生き方を変えるものです。生きる力を与えるものです。私がキリストにあって復活するとはどういうことでしょうか。御言葉を見ていきましょう。
今日、登場しますのはサドカイ派の人々です。:23にあるように、この人たちは「復活はない」と言っていました。簡単に言えば、彼らは上流階級に属する人々で、保守的な立場の人々です。サドカイ派は祭司です。神に仕える人々です。聖書を重んじていますが、創世記から申命記までのモーセ五書だけを権威ある書物としました。今日はエゼキエル書を読みましたが、預言書などには目もくれなかったようです。祭司ですから宗教的なはずですが、信仰よりも政治を重んじていました。ヘロデ派と同じです。ちなみに、サドカイ派とファリサイ派とはことごとく正反対です。
サドカイ派の人々がキリストをやりこめようと思って尋ねます。:24「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。」モーセが語ったと言われているのは申命記25:5以下のことです。サドカイ派はモーセ五書だけを権威ある言葉として認めます。ですから、申命記を引用して尋ねるのです。申命記25章で言われているのは、レビラート婚と呼ばれる慣習です。子どもを得ずに亡くなった兄のために、その弟が兄嫁と関係を持ちます。亡くなった兄の名前が途絶えてしまわないためです。モーセがこのことを定めたのは、神の祝福を願ってのことです。イスラエルでは、子どもは神から賜る恵みであったからです。
サドカイ派はモーセが言ったことを杓子定規に受けとめています。しかし、神の御心は正しく受け止めていないようです。サドカイ派が言うことは、官僚的な発想だなと思います。
:25〜28「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」一人の女性が七人兄弟と結婚して、結局一人も子どもを得ることなく皆が亡くなったというのです。このようなことが現実にあったとは思われません。議論のためにサドカイ派が考えだしたことです。
復活があるとしたらこういう時はどうなるのかと、ファリサイ派との間で議論したようです。七人兄弟と結婚した女性とその夫たちが復活したら、おかしな結婚関係になってしまう。だから復活はない、と主張したようです。サドカイ派の論理も変だなと思いますが、それに対するファリサイ派の答えもありました。ファリサイ派は、七人兄弟の中から気に入る男を一人選んでと結婚すれば良い、と答えたそうです。ファリサイ派の答えも、やはり妙な答えです。
いずれにしても妙なことになってしまう議論を、サドカイ派はキリストに持ちかけます。そしてキリストがやはり、妙な答えをしたらやりこめてやろうと考えているのです。復活があると言うから妙なことになるのだと、主張するつもりで待ち構えています。
これに対してキリストですが、二段構えで明確に答えられました。まず:29、30です。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」最初に言われたのは、復活とは単なるこの世の延長ではないことです。「天使のようになるのだ」と言われました。天使というのが、私たちには分かるような分からないような存在ではないでしょうか。正直、私たちが天使のようになるとは、正確にはどのようなことになるのか分かりません。
よく分かりませんからギリシア語で確認しますと「天における使いのようなもの」という表現でした。「天における使い」ですから、天使となるわけです。ここで心に留めたいのは、復活とは私たちが天に存在する者になることだということです。そして、天において使いのものになるのですから、神の御そばで仕える者になるということです。
復活の時、私たちは自分自身の人格や個性を持ちつつ、栄光の神に仕える者に変えられます。具体的には、もはや罪も死もない輝ける者となっています。復活は私たちが自分自身でありながら、全く神の栄光に与かる者へと変えられることです。このことをサドカイ派は理解していません。そして、復活を信じているファリサイ派においても、事情は同じです。ですから、地上における「めとるとか嫁ぐ」という議論から抜け出せていません。ですからキリストは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われます。
復活のあること。復活において、私たちが神に仕える栄光ある者へと変えられること。このことをキリストは、もう一段上に登るようにして語られます。:31、32「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」ここで引用されている御言葉は、出エジプト記3:6です。サドカイ派はモーセ五書の権威しか認めていませんでした。そこでキリストは、出エジプト記から御言葉を引用してお答えになるのでした。ちなみに、復活を論証するためにこの箇所を引用されたのはキリストが最初である、と言われています。
出エジプト記3章は、神がモーセに現れる場面です。イスラエル人はエジプトで奴隷となり、苦しんでいました。イスラエルの苦しみをつぶさにご覧になった神は、モーセを用いてイスラエルを救い出されます。神がモーセに御自身を現される時、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。これが私たちの復活を証明していると、キリストは言われます。
モーセの時代には、アブラハムもイサクもヤコブもすでに亡くなっています。しかしモーセに神は「わたしは…アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのです。神は今もアブラハム達の神である、と御自身のことを言われました。死を迎えてなお、神の御前にアブラハム達が存在している。つまり、彼らは復活して天使のように仕えている、と神は言われる。キリストは出エジプト記の御言葉を、そのように解き明かされたのです。ですから、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ともキリストは言われたのです。
キリストのこの論理に関して、正直、スッと受け入れるのが難しいかもしれません。分かるような分からないような理論だなあ、と思われたかもしれません。そうであれば尚のこと、私たちは御言葉に記されていることを丹念に追いかける必要があります。
キリストが復活についてズバッと語られた時、どうなったでしょうか。:33「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」人々はキリストの答えに驚嘆したのです。つまり、キリストの言われることに感心したのです。そして来週の箇所になりますが:34です。「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。」
キリストをやり込めてやろうと思っていたサドカイ派の人々は、キリストの言葉によって逆にやり込められてしまったのです。それはファリサイ派も認めるところであったのです。復活について語られるキリストの言葉に、サドカイ派もファリサイ派も、共にぐうの音も出なくなったのでした。
ここで私たちも、神の言葉を自分に引きつけて読みたいのです。キリストは、復活があると明確に語っておられます。「キリストが明確に復活を語っておられる」と言いましたのは、「キリストは明確に復活を宣言しておられる」ということです。私たちはキリストを救い主と信じ、この方がおっしゃる復活を明確に信じなければなりません。そしてその復活とは、「私において起こる」ことを信じなければなりません。
私が復活すると言う時、死んだ時の姿で蘇るのか、一番元気な時の姿で蘇るのかと、疑問は尽きないでしょう。それで言うなら、確かに私が復活するのです。そして、どのような姿に復活するかと言えば、栄光の体を持って、輝かしい者として、私たちは復活します。私が復活するとは、私が最も輝かしい者として復活するということです。その時、私たちは紛れもなく、罪も死も乗り越えた者として、復活するのです。
キリストを信じるとは、キリストを復活させた神の力が、私にも働くと信じることです。死の問題を乗り越えていく力、それがキリストの復活であり、私たちの信仰だからです。