2026年8月23日 礼拝説教 「招きを無にしない」
旧約聖書 イザヤ書 25章6~8節
新約聖書 マタイによる福音書 22章1~14節
説教題 「招きを無にしない」
説教者 後登雅博 牧師
音声のみもあります
マタイ22:1〜14 「招きを無にしない」 イザヤ書25:6〜8 2026.8.23
イエス・キリストは今日もたとえ話をしてくださいました。今日のたとえ話ですが、新共同訳聖書の小見出しは「婚宴のたとえ」となっています。「婚宴」というのですから、まことにおめでたい席です。ところで、今日の話を聞いて私たちがめでたい気分になるかといえば、おそらくそのようなことはないでしょう。おめでたい気持ちになるどころか、かえって恐ろしい気がしてくるはずです。「婚宴のたとえ」が、どうしてこのような恐ろしい話となってしまうのでしょうか。キリストがなさった話ですから、ここには私たちに向けられたメッセージがあります。それは如何なるものでしょうか。恐れを抱えながらですが、御言葉を読んでいきます。
今日の話は「婚宴のたとえ」です。つまり、結婚披露宴はたとえとして持ち出されているのであって、別のことが語られています。:2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」天の国について語るために、キリストは婚宴を例えに用いられたのでした。天の国について語られます。ですから:2の「ある王」とは父なる神のことです。その王子と言えばキリストですが、キリストが結婚されることはありません。いや、キリストが花婿で教会が花嫁のように言われることはありますが、今日の例えには関係のないことです。この例えのポイントは、婚宴に招かれた人々です。
王が催した婚宴が始まろうとしています。しかし、招かれていた人たちが集まってきません。そこで王は使いの者を送って、招待していた人々を呼びにいかせます。これは当時のイスラエルで行われていたことです。あらかじめ祝宴のあることだけを伝えておきます。その後で改めて、開催についての詳しいことを伝えました。最初の連絡をもらっただけでは、どのタイミングで会が催されるかわかりません。ですから、招待された人が集まっていないことがあります。王はそのこともわかっています。そこで改めて「準備ができましたからお越しください」と招きに行かせました。ところがここで、おかしなことが起こります。最初に招待されていた人たちが、次から次へと招待を断ります。
今日の話ですが、ルカによる福音書14:15以下にも同じようなお話があります。ルカでは「婚宴のたとえ」ではなく「大宴会のたとえ」となっています。ルカのたとえでは、招きを断るのにもっともらしい理由が挙げられていきます。畑を買ったところです、牛を買ったところです、結婚したばかりですと、次から次へと理由をつけて断られます。しかしマタイの方は、理由もなしに招きを断っているのがわかります。:5、6「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」なんとも驚く、およそあり得ないことが起こっています。よくよく考えれば、王様の招待を断っています。それだけでも恐れ多いはずなのに、僕を殺してしまいます。婚宴という祝い事に招待されていたのです。どうして、わざわざ呼びに来てくれた家来を殺してしまうようなことになるのでしょうか。
今日のたとえは、天の国のたとえです。思えば、キリストが公に活動を始められた時の第一声も神の国に関することでした。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)。キリストが、どれだけ神の国を重視しておられるかがわかります。そのキリストが神の国について話しておられます。全て計算づくで語っておられるはずです。驚くようなことが語られるのは、語り手の思いがそれだけ強く込められているからです。
天の国のたとえに出てくる王は、天の父なる神です。ですから使いに出される家来は、神から遣わされる預言者です。キリストがここで語られたのは、あなたたちは神から派遣された預言者を無視し、ついには殺してしまったということです。
それでは、王から招待を受けていながら家来を殺してしまったのは誰でしょうか。預言者たちを殺したのはイスラエル人たちです。今日の話はたとえという形をとっていますが、イスラエルの現実についてキリストは語っておられます。神に選ばれたはずの選民イスラエルが、神の招きを拒否したのでした。
自分の家来を殺された王が怒るのは当然でしょう。それにしても、この王がしたこともやりすぎではないでしょうか。:7「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」王の僕を無視した人がいましたし、殺してしまった人もいます。それでも、全ての人が同じように僕を扱ったわけでもありません。それなのに、軍隊を送って町を焼き払ってしまうとは、どう考えてもやりすぎと言うべきでしょう。そしてなんといっても驚くのが、これをキリストがたとえとして語っておられるということです。
本当にキリストがこんなことを言われただろうか、と疑問に思う人もいます。これはキリストの発言ではなく、後の時代の教会が付け加えた言葉ではないか、と言われることがあります。意見の分かれるところですが、それでも大方の意見が一致していることがあります。それは:7で言われていることが、現実に起こったということです。
キリストの公生涯からおよそ40年後の紀元70年、イスラエルがローマ軍に攻め込まれました。キリストが語られた通り、町が破壊され、エルサレム神殿も崩れ落ちました。そのことが:7で言われているというのです。:7は預言として成就したのです。
ここで受け止めておくべきことがあります。エルサレム神殿が崩壊したことは、イスラエルが神の招きを拒んだからです。イエス・キリストを救い主と信じて受け止めなかったからです。そういう厳粛な現実を受け止めつつ、しかしこれを神の裁きのようには受け止めないほうが良いのです。いや、神の裁きとしか言いようがない側面があります。それでも、神の裁きは滅ぼすためではなく、あくまでも罪を悔い改めるために行われます。
滅ぼすことが最後の目的であれば、今日のたとえはここで終わるはずです。しかし今日のたとえは:7で終わっていません。まだ続きがあります。
王は続けて言います。:8、9「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」イスラエル民族が神の国を退けたわけでした。ですから、他の民族に神の国が与えられるのです。天の父は神の国を、喜んで受け止める人に与えたいと願っておられます。私たちもそうではないでしょうか。自分が誰かに贈り物をするとします。喜んでもらってくれる人と、受け取りを拒否する人とがいるとしたら、どちらに与えたいと願いますか。また、自分の大事なものを誰かに譲るならば、少しでも大切にしてくれる人に譲りたいと思うはずです。
神が天の国を諦めるはずがありません。キリストを受け入れないサンへドリンは、ふさわしくなかったかもしれません。選民イスラエルも、イスラエル人であるというだけでは、神の国の方に来ないかもしれません。そこで王は言うのです。:9「だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」「町の大通り」とあるのは、町の境目という意味もあります。そこから先は町を超えて新しい世界に通じる、そういう地点のことです。神の国がイスラエル人だけではなく、異邦人にも大きく開かれています。神の国が大きく開かれるイメージをもって、キリストは語っておられます。
聖書の言葉を読み込みすぎてはいけませんが、「大通り」という単語がなかなか興味深いです。出エジプト記のことを英語でエクソダス(Exodus)と言います。「大通り」という単語は、ギリシア語でもエクソダス「出発」が含まれています。エクソダスという綴りに前置詞が付け加えられた単語で「大通り」となります。
王は家来に、町の大通りにまで出かけていくように言いました。天の国のあることを伝え、人々を罪の支配から脱出させます。そのために、神の僕は遣わされます。今や選民イスラエルという枠を超えて、神の僕は町の外れ、地の果てにまで出ていき宣教します。
神の僕はそこから「善人も悪人も」連れてきます。ちなみに「善人も悪人も」となっていますが、ギリシア語では順序が逆になっていました。キリストの強調点は、悪人の方にあるのではないでしょうか。ですから「悪人も善人も」と訳すのが良いと思います。そして「悪人」という言葉には、状態の悪い人、弱くされた人という意味もあります。単純に「悪人」と表現するだけでは足りないように思います。ついでに「善人」の方は、有用な人、完全な人という意味があります。
ともかく神の僕は、良くも悪くも人を分け隔てすることなく多くの人を集めてきました。こうして祝宴の会場が、招かれた人でいっぱいになりました。ここで祝宴会場に王が入ってきます。ところが、ここでもう一度問題が起こります。集まっている人の中に、礼服を着ていない人がいました。礼服を着ていない人は、祝宴から放り出されてしまいます。
再び私たちは恐れを覚えます。王の祝宴に来なさいと言われて集められました。招きに応じた人々は、町の外れにいた人たちです。何の心備えもなく、そこら辺を歩いていた人たちです。それが突然声をかけられて、王の祝宴にお越しなさいと言われたのでした。この人たちは突然の申し出にも関わらず、王の招待を受け止めました。それだけで充分ではないでしょうか。外を歩いている時に急に呼び止められて、礼服を着ている方が珍しいでしょう。それなのに、急に声をかけられて集められて、礼服を持っていなかったから放り出されるというのでは、さすがに無茶苦茶な気がします。
しかしここで私たちは思い出すべきです。キリストは神の国のたとえをしておられるのです。今ここで招かれている人たちは、神の国にいるのです。その時に礼服を着ていなかったとは、神の国で身につけているべき物を身につけていなかったということです。その人が悪人であるか善人であるか、弱さを抱えているか有用な人であるかということは問題になりません。しかし、キリストを信じているかどうか、これだけは重要なのです。
:14「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」神は多くの人を招いておられます。神はそれだけ熱心に、そして愛を持って、私たちを神の国へと招いておられます。神の招きに応えるために、私たちに必要はことは何でしょうか。それは、素直に招きを受け止めることだけです。王が求めた「礼服」とは信仰に他なりません。天の父を恐ろしい神とするのではなく、愛を持って私たちを招いておられる神とすることです。神は今日も、私たちを礼拝へと招いてくださいました。神の善き御心を疑わないところに喜びがあり、神の国があるのです。信仰を持って神の招きに応えましょう。