2026年6月14日 礼拝説教 「憐れみは豊かに」
旧約聖書 イザヤ書 56章1~8節
新約聖書 マタイによる福音書 20章1~16節
説教題 「憐れみは豊かに」
説教者 後登雅博牧師
マタイ20:1〜16 「憐れみは豊かに」 イザヤ書56:1〜8 2026.6.14
イエス・キリストがしてくださった天の国の例えです。今日の話は、天の国はどういうものかを教えています。どうしてこのような例え話が出てきたかといえば、マタイによる福音書19:13にまで遡ります。キリストに祈っていただこうと願って子ども達が連れて来られました。ところが弟子達は、その人たちを叱ります。そこでキリストは、子どもたちを祝福するために言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」天の国には、子どものように力の無い人が入るのです。
そして先週の箇所ですが、金持ちの青年が登場しました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と、この青年は真面目に問うたのでした。そこでキリストは「貧しい人に財産を施して、それから私に従いなさい」と言われました。しかし青年は、キリストの言葉に従うことができません。悲しみながら立ち去ってしまいます。
以上の出来事を踏まえて、改めて天の国についてキリストがお話しされます。この話をされたキリストの思いはどこにあるのでしょうか。簡単に言えば、天の国は全ての人に向けて開かれている、ということではないでしょうか。天の国は金持ちになって、貧しい人のために良き働きができて初めて入れる場所、ではありません。子どものような者のために開かれているのが天の国です。キリストがしてくださった例え話によって、天の国が私たちのために開かれていることを確認しましょう。
:1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」天の国はある家の主人のようだ、というのです。ある主人のことを話せば、それがそのまま天の国の話になります。ある主人とは、父なる神のことです。
天の国について教える例え話です。つまり、今日の話はある意味現実的なことではありません。特に天の国について教えていますから、なおのこと私たちの常識では測れないところがあります。それでも例え話そのものは、わかりやすい話ではないでしょうか。「家の主人」とは神のことであり、「労働者」とは私たちのことです。天の父なる神は、私たちを神の国に招きたいと願っておられます。ですから、朝早くから「家の主人」はせっせと「労働者」を雇い入れます。
ところが、人手が足りなかったのでしょう。主人は9時ごろにも広場に出かけて人を雇います。しかも主人は、12時ごろと3時ごろにも人を雇うために出かけていきます。主人の行動は普通ではないと言わなければなりません。12時、3時とこのような時間にも人を雇わなければならないとしたら、主人には計画性がないと言うべきです。ブドウ園を運営するセンスに欠けています。
と、ここまで話を聞いてきた人たちは、「これは例え話だったなあ」と思わされるところです。つまり、現実にはない話ということです。昼近くになってもまだ人を雇うことがそもそもあり得ません。それなのに、5時ごろに雇われる人まで出てきます。このようなことは現実の生活ではありえません。でもこれは、神の国の例え話です。ですから、これで良いのです。
例え話はまだ続きます。夕方となりました。仕事が終わったのは午後6時です。主人は監督に言います。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」主人が気にかけているのは、最後に来た人たちであることがわかります。例え話ですから、現実に即して受け止めるところとそうでないところとがあります。最後に来た人から賃金を支払うのは、現実としてはどうかなあと思うところです。しかし主人が一番心にかけているのは最後に来た人たちですから、このような対応になります。そしてキリストの話を聞きながら、きっと多くの人が自分も最後に来た労働者だ、と思ったはずなのです。午後5時になっても誰にも雇ってもらえなかった労働者です。キリストの話を喜んで聞くのは、律法学者やファリサイ派の人々ではなく、ガリラヤの民衆が多かったからです。
ここで現実的に考えるなら、早い時間に雇われていくのは元気な若者です。5時になっても広場にいるのは、労働力と見做されない人々です。
例え話の主人も、労働力になりそうにない人を朝早くから雇うことはしません。それなのに、午後5時にはまた人を雇います。常識離れしたことですが、これが天の国だからです。天の国には、子どものような人が入るからです。自分には十分な力がないと思っていても良いのです。労働力になるとは思えない人にも、「わたしのぶどう園に行きなさい」と主人は言います。天の国は、子どものように無力な人にも開かれているからです。最後の人には1時間の働きしかありません。それでも、神の国には必要な存在であるからです。
1日の仕事が終わりました。最後に来た人たちが1デナリオンの賃金を受け取ります。これもまた、常識では考えられないことです。この人たちは1時間しか働いていません。それでも1デナリオン受け取れます。ここから分かるのは、天の国の報酬は出来高制ではないことです。そしてもう一つのことがあります。「報酬」という言い方をするなら、神の国の報酬は私たちの想像をはるかに超えていることです。
私も長らく「1デナリオンは1日分の賃金」と教わってきました。しかしどうやらそうではなさそうです。1デナリオンが1日分の賃金であるとは、今日の例え話をもとにして言われるようになったからです。今日の箇所をもとに、どこかの学者が「当時の一日の賃金は1デナリオンだった」と書きます。それを読んだまた別の人が、同じようなことを書きます。そうして、1デナリオンが一日の平均的な賃金でした、という説が出来上がったようです。
しかし今日の話は例え話です。しかも、天の国について教える例え話です。キリストは、主人の気前の良さを語っておられるのであって、現実とは違うと考えるべきです。つまり、一日働いて1デナリオンという賃金は、現実離れした金額なのです。夜明けに雇われた人は、主人と一日につき1デナリオンという約束をしました。これがすでに、一日の賃金としては十分な額だったと考えるべきです。キリストの話を聞いていた人は、一日働いてそんなにもらえるなら自分も雇ってもらいたい、と思ったはずです。キリストがなさった天の国の報酬は、驚くような話だったのです。
一日働いて1デナリオンでも結構な額です。そうであれば、わずか1時間で1デナリオンも手にするとは、全く考えられないような話となってきます。キリストが教えてくださる天の国とは、全く私たちの想像をはるかに超えていると言えます。
このように考えてくると、天の国の話とは、誰が聞いても喜ばしい話であるはずなのです。それなのに、今日の例え話は少しひねりがあります。みんなが喜ばしくなるはずなのに、不満に感じる人が出てくるからです。夜明けから働いていた人たちです。9時から3時までの間に雇われた人からも不満が出てくるはずですが、書いてありません。例え話だからです。夜明けから働いていた人と1時間しか働かなかった人の対比が強調されます。
夜明けから働いていた人が主人に文句を言います。自分が同じ立場になったら、同じように不満を感じたに違いありません。自分が不当に扱われた気がするからです。自分が一番働きました。それなのに、自分の働きが正当に評価されていません。こういうことは、結構私たちの日常にもあるはずです。「誰よりもたくさん働いた」とは言わないまでも、自分の働きに対する十分な報いやねぎらいがなかったとしたらどうでしょう。自分の働き、自分の存在が本当に認められているのだろうか、と思ってしまいます。私自身は5時に雇われた人という意識を持っていますが、それでも夜明けから働いた人の不満もよく分かります。
それにしても、よくわからないのが主人です。どうして、夜明けから働いた人を最後にしたのでしょうか。約束した1デナリオンを支払っていますが、これではどうしたって不公平だと思ってしまうではありませんか。
これは天の国について教える例え話です。天の国の主人の気持ちが語られているのです。すなわち、天の国に入る人には主人と同じ気持ちになってもらいたい、ということです。主人の気持ちとは如何なることでしょうか。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」主人は、最後に来た人のことを心にかけている、と最初の方で申し上げました。しかし最後の人の報酬は、あくまでも最初の人との約束が基準です。つまり、主人は最初の人のことも気にかけているのです。最初の人以上に、他の人に報酬を割増しているつもりはないのです。いや、現実の時間給に換算すれば割増報酬です。しかし神の国の報酬として受け止める時、全ての人に対して初めから、現実離れした額の報酬が等しく設定されていたのです。
神の国に入ることが、そもそもの初めから驚くほどの大きな報酬であるのです。その上で、最初から働いている人に受け止めてもらいたいと主人が思っていることがあるのです。主人は言います。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」妬みの心を起こさないで欲しい、と主人は願っているのです。「私が善い者であるから、あなたの目が悪くなるのか?」というのが主人の最後の言葉の直訳です。目が悪くなるとは視力が落ちるというのではなく、目つきが悪くなるということです。天の国に入るのです。隣の人と自分を比べるようなことをしないで欲しい、と主人は願うのです。あの人は自分よりも善いものをもらっているとか、逆に自分の方が上の方にいるぞ、などと考えないでほしいと主人は願うのです。なぜなら、主人としては一人一人に、一番善いものを与えているからです。みんなに素晴らしいものを与えたのに、自分が手にしたものはつまらない、などと考えないでくれ、と主人は願うのです。
主人が与えてくださったものとはなんでしょうか。それこそ今まで、皆さんは何度も聞いてきたはずです。私たちのために、天の国の主人はイエス・キリストを与えてくださったのです。キリストのことについて、夜明け前から聞いてきた人もいれば、午後5時になってようやく聞かされたという人もあるでしょう。キリストを聴くのが早かったか遅かったか。信じるのが早かったか遅かったかという違いは出てきます。しかしいつキリストに出会ったとしても、キリストを信じたら天の国の民です。自分が先か後かということは、天の国においてはさほど重要なことではありません。天の国という報酬が莫大だからです。本来から言えば、誰もそのような報酬に値するような働きはなかったからです。
神は私たちの働きによらず、「イエス・キリストによる救い」という報酬を与えてくださいます。私たちに与えられている天の国の報酬が失われることはありません。天の神は気前の良い御方だからです。誰かの報酬を妬む必要もありません。私たちの働きはわずかでも、豊かなものが約束されているからです。お互いに、天の国が与えられていることを感謝しようではありませんか。あなたも私も、同じように天の国の民とされているのです。これほど嬉しいことはないからです。