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2026年8月16日 礼拝説教 「神が据えた石」

旧約聖書 イザヤ書 28章16節
新約聖書 マタイによる福音書 21章33~46節
説教題 「神が据えた石」
説教者 後登雅博 牧師

音声ファイルのみ

マタイ21:33〜46 「神が据えた石」 イザヤ書28:16  2026.8.16

 キリストは神について教えてくださいます。今日の例え話も、神がどのような御方であるかを教えておられます。そして、どうしてキリストが人として地上に来られたのか。キリストは私たちのためにどのような働きをされるのか。それらのことについても語っておられます。
 :33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」キリストは「もう一つのたとえを聞きなさい」と言われます。もしかしたら、二人の息子の例え話を聞いたサンへドリンは、その場を立ち去ろうとしたのかもしれません。キリストの話に腹を立てたからです。彼らはキリストとの対話を中止しようとします。しかしキリストは彼らに心を向けておられます。何とかして、彼らに神の国の門を開こうとされます。正しく神を分からせようとされます。神の国に招き入れようという熱意は、私たちにも向けられています。そしてこれは、父なる神も同じです。
 :33ですが、「ある家の主人」は父なる神であり、「ぶどう園」は神の国です。ちなみにこの主人は大規模農家の主人で、手広く事業でもしているのでしょうか。他にも仕事を抱えているようで、ぶどう園を農夫たちに任せて旅に出ます。
 :34「さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。」農夫たちにぶどう園のことは任せています。もちろん、ぶどう園のことを忘れているわけでも、放ったらかしにしているのでもありません。収穫の時はいつか、ちゃんと頭に入っています。主人は旅に出て以来、帰って来ていません。農夫たちの仕事を信頼していたからです。
 ところがここで、予期せぬことが起こります。:35「だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。」あろうことか、農夫たちは送られてきた僕たちを酷い目に遭わせました。びっくりしたのは主人でしょう。一体どのような行き違いがあったのか。恐ろしい出来事の原因は何なのか。主人は農夫たちを信頼して任せていましたから、改めて僕たちを送ります。:36「また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。」しかし同じことの繰り返しでした。
 キリストは例えを話しておられます。例え話なのですが、今日の話は実話に基づく話です。主人は天の神です。ですから、主人が送った僕たちは、神の僕です。すなわち、イスラエルに遣わされた預言者たちです。父なる神は何度も、イスラエルに預言者をお遣わしになりました。それはイスラエルが危機的な状況にあったからです。イスラエルは小さな国です。しばしば、近隣の大きな国から攻め込まれました。その時に、イスラエルはまことの神を頼りとしませんでした。大きな国から攻め込まれるなら、他のもっと大きな国に助けて貰えば良いではないか。そのようにイスラエルは考えました。諸外国の力を頼りとして、まことの神の助けを求めませんでした。そのような時に、預言者が遣わされます。外国の力、人間の力を頼りとせずに、まことの神へ立ち返れと預言者は語ります。しかしイスラエルは預言者を受け入れず、迫害しました。まことの神へと立ち返ることを拒みました。そしてイスラエルはしばしば、諸外国の支配下に置かれたのでした。
 神はイスラエルに何度も預言者を遣わされました。神へと立ち返れと、何人もの預言者が語りました。しかしイスラエルは、少しも預言者の声を聞こうとしません。そういうイスラエルにあった出来事を踏まえて、キリストは今日の話をされました。
 キリストの例え話を聞きながら、私などは正直ありえないだろうと思ってしまいます。先ほどの:35、36です。僕を送ったら殺されてしまったのです。:35だけでも二人殺されてしまいました。それなのにまた僕たちを送ります。:36を見ると「他の僕たちを前よりも多く送った」とあります。流石に主人も少しは警戒したのかもしれません。少人数では危ないかもしれないと思ったようです。それでも、その多くの僕たちも、前と同じように悲惨なことになってしまいました。でもこれが、思えばイスラエルの現実だったわけです。
 そういうイスラエルの現実を知りながら、主人はどうしたでしょうか。:37「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」どうしてこのような発想になるのだろうか、と思ってしまいます。僕を何度送っても、その度に殺されています。このような状況で自分の息子を送ったりしたら、絶対危ないじゃないですか。正直、私には主人が全く理解できません。
 しかしこれこそが、父なる神なのです。神の国は地上の世界とは異なる原理で動いているようです。神はなおも憐れみを持って、イスラエルを立ち返らせようとされます。自分の息子を送る主人には信じがたいものがありますが、この息子にも信じがたいところがあります。自分よりも前に送られた僕たちは、ことごとく迫害されています。息子がそのことを知らないはずがありません。でもこの息子は、全てを承知の上で農夫たちのところに行きます。この息子とは、イエス・キリストに他なりません。
 キリストが人として地上に来られるということ。このことはそもそも、全く危険を顧みない働きなのです。そして父なる神が農夫たちを信じたように、息子もまた信じて地上に来るのです。キリストもまた、私たちが神へと立ち返ることを願っておられるからです。
 さあ、農夫のところに出かけて行った息子はどうなったでしょうか。私たちの予想通りです。:38、39「農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」先に申し上げておきますが、息子を殺しても主人の財産が自分たちのものになるはずがありません。農夫たちの行動も考えも正気の沙汰とは思えません。
 今日の例え話は、イスラエルの現実に基づいた話でした。イスラエルは、神の国を手に入れようとして、全く見当はずれな行動をしています。これは罪ですと言って仕舞えばそれまでですが、何ということでしょうか。罪に囚われてしまいますと、正しい判断もできなくなります。キリストを殺しておいて、どうして自分たちが神の国を手にできるなどと考えてしまうのでしょうか。罪の力、恐るべしです。
 しかし、これが現実です。つまり、キリストを十字架に付けることで、自分たちこそ神の御心に従っていると信じているのです。サンへドリンにすれば、自分たちだけが神について教える権威を持つと考えるからです。キリストは何の権威も無いにも関わらず、神殿の境内で勝手に神を教えている不届者と考えるからです。ですから、キリストなどは殺してしまわなければならないのです。
 イエス・キリストは旧約聖書の預言者たちと同じく、神の御心を明らかにされました。そのために、殺されてしまうのです。人々が神の御心を正しく受け止めないからです。ここにも人間の罪があります。
 キリストは言われます。:42「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」キリストは詩編118編の言葉を引用されました。キリストは人々から捨てられた石となります。すなわち、十字架にかけられ、排除されます。しかしその捨てられた石こそが、家を建てるために一番大切な石になりました。これは神がなさったことです。私たち人間が考えたことでも、計画したことでもありません。神が私たちのために計画されたのであり、人の思惑を遥かに超えたことです。
 今日は旧約聖書からイザヤ書を読みました。イザヤ書28:16「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石。堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」信じる者は慌てることはありません。神が与えたいのは救いであり、解放です。ですから、キリストを信じるなら慌てる必要はありません。
 キリストは人々を罪の支配から救うために来られました。神が何度僕を送っても効果がありませんでしたが、キリストが満を持して来られました。ですからもう大丈夫です。私たちを救おうという神の熱意、キリストの愛を疑うことはできません。
 ところで、キリストが引用された詩編の言葉も、今日読みましたイザヤ書の言葉も、キリストを信頼する人に救いを約束しています。それなのに、キリストの最後の言葉はどうしたことでしょう。:44「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」ここで言う石はキリストです。キリストを信じる人は救われるはずなのに、どうしてこのような裁きの言葉が語られるのでしょうか。:44は、キリストを信じないサンへドリンに向けられた言葉だからです。
 繰り返しになりますが、キリストが願っておられるのは私たちの救いです。キリストは私たちの救いのために、自らの命を差し出されます。救いは、キリストを受け入れる以外にありません。どうあっても、キリストを神の子、救い主と信じる必要があります。信じても信じなくても、救いに関係しないということはありません。ですから、熱心に、厳粛に、信じなさいとキリストは言われます。キリストは命をかけて語っておられます。ですから、厳しい言葉にもなるのです。
 厳しいキリストの言葉は何を語ろうとしているのでしょうか。戻りますが:43です。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」サンへドリンに向かって語られていますから、消極的な言い回しになっています。ですから、これを積極的に言い換えることで、キリストを信じる人に与えられることが明らかになります。すなわち、キリストを信じる人はふさわしい実を結び、神の国が与えられます。キリストが語られる言葉の厳しさに怯んではなりません。キリストの願っておられることは、あくまでも私たちが神の国に入ることだからです。私たちがふさわしい実を結ぶために、キリストが命をかけておられます。キリストが命をかけてくださった御業に、私たちは素直に応答したいのです。その人は豊かに実を結ぶことになるからです。 

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