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2026年6月7日 礼拝説教 「神の国に入る」

旧約聖書 箴言 16章6~9節
新約聖書 マタイによる福音書 19章16~30節
説教題 「神の国に入る」
説教者 後登雅博牧師

マタイ19:16〜30 「神の国に入る」 箴言16:6〜9  2026.6.7

 先週は春の特別礼拝として、朝の礼拝を守りました。春の特別礼拝のために皆さんで祈る時を設けてきました。六回に渡って朝の礼拝後に、祈りの時を持ちました。その間に行われた朝夕の祈祷会でも、もちろん祈りを重ねてきました。そして春の特別礼拝の案内のために「まらな・た」を作り、皆さんでこの地域にお配りしました。
 どうして私たちはこれほど一生懸命に、春の特別礼拝のために準備し、祈りを重ねてきたのでしょうか。様々な言い方ができるでしょうが、一番の動機は、自分が信じている神をご紹介したいからです。すなわち、イエス・キリストによって救いを得ることを喜んでいるからです。自分の家族、友人、隣人に、自分と同じ喜びを知って欲しいと願うからです。
 イエス・キリストを信じて救われる、と言います。救いの究極的なことと言いますか、向かう先は神の国です。目指すところと言うか、約束されているのが神の国です。神の国とは、天国と言っても良いようなところです。悲しみや嘆きはなく、喜びと感謝に満ちて生きる場所です。
 「天国」と表現しますと、死んでから行く場所、というイメージを私は持ってしまいます。神の国のイメージはそうではなく、死んだら行くところ、というような湿っぽさはありません。確かに、死を経験してから神の国に入ります。神の国は約束の地であり、天の国と呼ばれるべき場所ですが、地上においてすでに、信じる人は神の国の市民となっているという感覚があります。
 私たちが神の国、天の国と言う時、確かに地上を遥かに離れた場所のことを考えています。しかし、死を乗り越えてから入る所というだけではなくて、地上において今すでに、神の国の一部を体験していると考えるべきです。つまり、神の国は遠くにあると思うだけではなく、今ここにあるとも考えるべきです。神の国が約束されているとは、すでに手に入れているというぐらい、確かな感覚を持って受け止めて良いことなのです。神の国は、キリストの約束だからです。
 神の国を考える時、将来の約束、未来の場所というだけではなく、現在神の国を生きているという感覚を持っていただきたいのです。そうでないと、天の国が抽象的なものとなり、神の約束までぼやけてしまうように思うからです。神の国の約束は、神の国に憧れるだけではなく、現在の生活を変える力を持っているからです。
 前置きが長くなってしまいました。それでは、与えられた御言葉を見ていきましょう。
 本日は、神の国を求めた青年の話です。この人は言います。:16「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」神の国と言わず、永遠の命と言っています。表現が違いますから、厳密に考えれば神の国と永遠の命とは違う、と言わなければならないでしょう。しかし今日のところは、おおむね同じことと考えてください。神の国に入るとは、罪が赦されて可能になることだからです。罪が赦されるとは、すなわち永遠の命が与えられて、神の国に生きることになるからです。
 青年ですが、永遠の命について真剣に、キリストに尋ねています。例えばファリサイ派のように、キリストを試してやろうというようなつもりはありません。そして青年が、真面目な人であったことも推測されます。「どんな善いことをすればよいのでしょうか」と、必要な善き行いについて聞いているからです。青年は、自分が永遠の命を得るためには、果たすべき義務を行う用意があるのです。
 青年が自分のなすべき行いについて尋ねたものですから、キリストは十戒を守りなさいと言われました。キリストが守るようにと言われたのは、厳密には十戒の後半部分とレビ記に記された隣人愛の教えです。十戒の前半部分、神についての戒めのことが言われていませんが、神を第一とするのが必要であるのは言うまでもないことだからです。青年が求めたのは永遠の命であり、神の国ですから、それらのことが神によらないで与えられないのは当然のことだからです。
 しかしキリストが、人間に対する戒めだけを言われたことにも意味があります。永遠の命、神の国とは、今生きている現実と深く結びつくことだからです。現在の命や生活、自分の隣人への愛に生きることなしに、天の国を望むことは出来ないのです。永遠の命を得て神の国に住むとは、一人孤独に生きることではないからです。むしろ、無数と言って良いほどの多くの兄弟姉妹と共に、神を中心にして生きることだからです。永遠の命を求めるとは、現実的な隣人愛に生きることから始まる、とキリストは教えておられるのです。
 ところが真面目な青年は、キリストの言葉を受けてキリストに尋ねます。:20「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」この青年が真面目で真剣であることを疑いません。それでも、「自分は神の戒めを全て守っています」と言えてしまうところに、この青年の欠けがあるように私には思われますが、皆さんはどう思われるでしょうか。「青年の欠け」という言い方が良くないとすれば、「青年の若さ」と言えば良いでしょうか。いや、真面目で真剣な青年が持つ、少々高慢な感覚にも思えてしまうのです。青年は、自分の生き方に間違いはないと考えています。これでは結局、ファリサイ派と同じような誤ちに陥ることになるのではないでしょうか。
 しかしながら、キリストは青年の問題を見抜きながらも、慈しみを持って青年にお答えになります。:21「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」ここでキリストが、無理難題をふっかけておられるとは思いません。いや、私が同じように言われたとしたら、青年と一緒で、とても出来そうにないと考えて立ち去らざるを得ません。
 それでも、キリストが青年に向かって言われたことは、彼に永遠の命を諦めさせるためではありません。キリストは青年に、永遠の命を与えたいと願っておられるからです。それは間違いないのです。
 キリストが言おうとされたのは、「隣人にもう少し心を向けなさい」ということです。「実際にあなたの周りにいる人に心を傾けてご覧なさい。そうすれば、きっとあなたよりも貧しい人、困っている人がいるに違いない。そういった人々に、少しばかり助けの手を差し伸べなさい」とキリストは言われたのです。
 青年は、「神の戒めは守ってきました」と答えていました。しかしキリストは、「自分が永遠の命を得ようとするだけではなく、もっとあなたの周りにいる人と共に過ごしなさい」と言われるのです。自分だけが命を得ることではなく、周りの人にも永遠の命を得させることを考えなさいと言われるのです。そしてこれこそ、私たちが春の特別礼拝のために願ったことであり、祈ってきたことではありませんか。
 キリストは、まずあなたの周りにいる人に心を向けなさいと言われました。「それから、わたしに従いなさい」と言われました。しかし、青年は悲しみながら立ち去ってしまいます。人々に施すことも、キリストに従うこともできないと考えたからです。この青年に一番欠けていたことは、自分を低くすることでした。「そういうことはみな守ってきました」と言える青年です。それは真面目な人生であったはずです。でも心のどこかで、自分は優れている、という思いが強くなり過ぎていたのではないでしょうか。身を低くして人に仕えることができませんでした。
 去って行く青年を見送りながら、キリストもまた悲しい思いをされたはずです。ですから、キリストは弟子たちに言われます。弟子たちも去ってしまうようなことがないように、彼らに言われるのです。:23、24「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これは弟子たちを励ますための言葉です。キリストの弟子たちに金持ちはいないからです。しかし、キリストの言葉は弟子たちを驚かせませす。
 :25「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。」金持ちであることは、神の祝福であると弟子たちは考えています。弟子たちは信仰的に考えていると言って良いでしょう。神の恵みによって財産は増える、と考えたからです。言い換えれば、自分の能力で裕福になるとは考えていません。だからこそ、金持ちが神の国に入るのが難しいとしたら、一体誰が神の国に入れるのかと考えました。
 キリストは弟子たちの戸惑いに応えて「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われます。神の国こそは、神の祝福の最たるものであるということです。神に祝福されて豊かになるならば、神の祝福によって神の国が開かれます。
 どのような行いが永遠の命に値するのかという問いかけから、今日は始まりました。しかしキリストは、神の国は私たちの行いによるものではないことを教えておられます。神の国は全くの恵みとして、神から与えられます。このことは、今日の箇所の直前で、天の国は子どものような者たちのものである、とキリストが言われたことにも示されていました。
 でもそのように言われましても、自分に神の国が与えられるかどうか、確信が持てないかもしれません。神が恵みとして与えてくださると言われても、宝くじに当たるようなものと考えてしまうかもしれません。ですからキリストは「わたしに従いなさい」とも言われました。キリストを信じて、キリストの後について行く人に、神の国は約束されているからです。
 このことをペトロは受け止めました。ペトロは言います。:27「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」ペトロの質問は、半分当たって半分外れていると言えます。何もかも捨ててキリストに従ってきたとは、そうでしょう。しかし「わたしたちは何をいただけるのでしょうか」というのは、少し外れています。今日のテーマは永遠の命、神の国だからです。これらのものは、キリストに従うときに既に手にしているからです。永遠の命や神の国が、名実共に始まるのは死を経験してからと言うべきでしょう。しかしキリストを信じたときに、これらのものは約束という形ではありますが、既に与えられています。キリストを信じて永遠の命が始まり、地上においても神の国に生きているかのように生活するのです。
 キリストは、ペトロの少しずれた質問を否定されません。それどころか、あなたたちも栄光の座に座ると言われます。あなたたちが手放したものに遥かに勝るものを手に入れる、とも言われます。ここで言われたのは、神の国に入ることと永遠の命を得ることです。今日の箇所で、最初から話題になっていたものが与えられるということです。そして神の国も永遠の命も、キリストを信じた時にすでに与えられています。
 その上で、最後に言われた言葉を心に留めたいのです。:30「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」弟子たちは、自分たちこそキリストに従ってきた者と思っていたでしょう。そして、金持ちの青年のことなど、もう気にも留めていなかったかもしれません。しかし、キリストは「そうではない」と言われます。遅れをとっていると思われる人のことも、神は御心に留めてくださっています。
 悲しみながら立ち去った青年ですが、その後思い直してキリストに従った、という話がいくつか伝わっています。新約聖書には記録されていませんが、いくつかのバリエーションがあります。青年の後日談が残されていることに、私は神の憐れみを思います。神は、後になる者のことをお忘れにならないことを示していると信じるからです。
 私たちにも神の国が約束されています。遅くなっても良いのです。後になっても良いのです。神の国を約束してくださるキリストを信じましょう。イエス・キリストこそは、私たちが神の国に入ることを誰よりも願っておられるからです。そのために、ご自身をお献げになったからです。キリストの愛のゆえに、神の真実の故に、私たちのための約束は確かなのです。

 
 

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