2026年5月17日 礼拝説教 「天の祝福」
旧約聖書 詩編 67編2節
新約聖書 マタイによる福音書 19章13~15節
説教題 「天の祝福」
説教者 後登雅博 牧師
マタイ19:13〜15 「天の祝福」 詩編67:2 2026.5.17
私たちは今日も、神を礼拝するために集まってきました。ところで、皆さんが描く神のイメージはどのようなものでしょうか。神のイメージと言いましても、目に見える姿形のことではありません。神は霊であり、目に見える姿などはないからです。神のイメージと言いましたのは、もう少し本質的なことです。神を礼拝しているのですが、その神はあなたにとってどのような御方でしょうか。単純な言い方をすれば、優しい神か厳しい神か、というようなことです。
私がイメージする神は、憐れみ深い優しい神です。もちろん、私たちを導くという意味で、毅然とした御方です。決して、なんでもホイホイと許してくださって、好きなようにさせてくださるというのではありません。それでも、根本的に言いまして、優しい神です。曲がったことまで許すことはありませんが、私たちが間違いを犯しても、七の七十倍までも赦してくださいます。最後まで私たちを庇って、味方でいてくださいます。それが私の神のイメージです。今日の箇所は、その神のイメージを表している箇所だと思いました。
まず、今日の箇所を読んでいて、同じような話があったはずだけどなと思いました。そう思ってマタイによる福音書を振り返ってみますと、18章のはじめにありました。弟子たちが「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたことがありました。その時キリストは、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われました。キリストは無力な子どもを慈しんでくださいます。そして、歳を重ねて大人になった私たちのことも、神の子どもとして受け入れてくださるのです。自分が神の前に無力で小さな者であると認めること。つまり、罪のあることを素直に認めることが大切なのでした。私たちには、自分自身を救う力はありません。しかし神は、その私たちのためにキリストを遣わし、私たちに代わって罪の償いをしてくださいました。キリストの故に、私たちは自分の無力さ、罪深さをかこつ必要はありません。自分の罪におののく人は、神の大事な子どもだからです。
というようなことを、あの時弟子たちは教えられたはずです。子どもであることの恵みを教えられたはずです。それなのに今日、子どもたちが連れてこられると邪険にします。これはどうしてだろう? と思いました。キリストに教えられたことを、すっかり忘れているようなのです。そのようなことがあるのでしょうか?
でもこれが、よくある人間の姿なのです。私たちは何度キリストの言葉を聞いても、すぐに忘れてしまうのです。キリストが教えてくださった通りに生きようと思っても、何度も失敗してしまうのです。神の愛を受けています。キリストが愛してくださったように愛さなければ、とわかっています。それでも、愛することに失敗してしまいます。どうして弟子たちは愛を持って子どもたちを受け止められないのだろうと思いましたけど、これは私たちの姿でもあるのです。
「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と教えられても、自分は子どもよりも上等な存在だと思ってしまうのです。ですから、子どもや子どもを連れてきた人々を叱り飛ばします。自分達にはそのような権威があると思っているからです。子どものように低くなるというのは、なかなか難しいのです。なかなか思うようにキリストの言葉に従うことができないのですから、我が身の無力さを思います。今言いました無力であるとは、あまり褒められた意味で言うのではありません。子どものように低くなっている、というのではないからです。
しかしそのような私たちを、キリストは受け入れてくださいます。弟子たちは、子どもたちを連れてきた人々を叱りました。しかしキリストは、その弟子たちを叱ってはおられません。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と注意はされます。しかし、弟子たちを叱り飛ばしたのではありません。キリストは間違いやすい私たちを、何度でも諭して下さいます。キリストは私たちの導き手であり、私たちの味方だからです。
天の国は子どもたちのような者に与えられる、とキリストは言われます。「このような者たち」ということでキリストが考えておられるのは、無力な者たちのことです。ここに出てくる子どもたちは、自分の力でキリストの元に来ることができませんでした。ですから、:13に「人々が子供たちを連れて来た」と記されています。子どもたちを連れてきた人々とは、恐らく子どもの親が多かったと思われます。ではなぜ、親たちは子どもをキリストの元に連れてきたのでしょうか。それは今日の箇所に書いてあります。キリストに祈っていただくためです。すなわち、キリストに祝福してもらいたいからです。子どもの幸いを願わない親がいるでしょうか。私はいないと思っています。
時々、育児放棄とか毒親と言われるような人もいます。しかしそのような人でも、決して子どもの幸せを願っていないとは思いません。子どもがあまり好きではないとか、愛情表現がうまくないとか、そういうことはあるでしょう。それでも単純に、子どもが幸せであるか悲しい思いをするか、どちらが良いと思いますかと尋ねたなら、幸せである方が良いと答えるはずです。そうであって欲しいと、私は願っています。
もっとも、子どもの幸せを願っていても、それでも親は間違うことがあります。親が自分の価値観を子どもに押し付けてしまうことがあるのです。親の心配が先に立ってしまって、子どもの自立を妨げてしまうこともあるのです。
そもそも今日の聖書の話、子どもの祝福を願っている親が、正しくキリストを求めているだろうか、とも思います。ご利益を求めてお参りするような感覚で、キリストの所に子どもを連れてきているのではないか、と思わないでもありません。そうであれば、そのような人々を叱った弟子たちは、あながち間違っていたとは言えなくなってきます。弟子達はキリストのことを考えて、ご利益ばかり求める人々を叱ったことになるからです。
子どものような者とは無力な者のことであり、天の国はそのような者たちのものであると、キリストは言って下さいます。一方で「人の親のような者」という表現があったとしたら、愚かな者のことを言うことになるかもしれません。自分の子どもの幸いを願うあまり、他の人のことにまで気が回っていないからです。
それでもキリストは、そのような私たちのことを受け止めてくださるのです。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」「このような者たち」とキリストが言われる時、無力な子ども達のことはもとより、愚かと思える親たちも含めて、キリストは受け入れておられます。どうしてですか。人の親の愛が利己的であるとしても、愛する心そのものを尊いと見てくださるからです。人の愚かさをも、神は慈しんでくださるからです。
:15「そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」キリストは子ども達に手を置いて、確かに祝福してくださったのです。ご利益ばかり求めてやってきた人々かもしれません。それでも、キリストの祝福から漏れてはいないのです。どうしてでしょうか。それこそ、キリストの父なる神のイメージと重なるからです。私たちの主なる神は、憐れみ深く、慈しみに富む神だかです。
今日私たちが聞くべき神からのメッセージは、神がどこまでも憐れみ深い神であることです。そして、神の憐れみを受けるために必要なことといえば、神の元に来ることです。私にも神の祝福をお与え下さい、と願うことです。親に連れて来られる子どものように、自分には力のないことを告白することです。
今日の箇所の説教は以上です。この後に、金持ちの青年の話が続いています。実は、今日の箇所と金持ちの青年の話を一まとめにして説教されることがしばしばあります。子ども達と金持ちの青年の話が対照的だからです。この両者を比べることで、神のイメージがより鮮明になるということです。
今日はもう、金持ちの青年の話をするだけの時間はありません。ですから、一言だけにしておきます。私たちが永遠の命を得るために必要なのは、人間の行いではありません。必要なのは、自分の力を頼りとするのではなく、神の憐れみにすがることです。天の祝福を得るために必要なことは、憐れみ深い神のもとに身を寄せることだけです。本当にこれだけなのです。
自分の頑張り次第で神の祝福が得られると考えるならば、私たちは際限なく頑張り続けなければならないことになります。天の祝福は、私たちの方から取りに行くようなものではなく、神の方から降ってくるのです。心配しなくても、神が豊かに祝福を与えてくださると信じるのが良いのです。神は憐れみ深い御方だからです。