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2026年9月6日 礼拝説教 「神のものは神に」

旧約聖書 イザヤ書49章14~16節
新約聖書 マタイによる福音書22章15~22節
説教題 「神のものは神に」
説教者 後登雅博 牧師

音声のみもあります

マタイ22:15〜22 「神のものは神に」 イザヤ書49:14〜16  2026.9.6
 イエス・キリストが人となり地上に来られたのは、私たちを罪から解放し、神の国へと招き入れるためです。私たちを救い、私たちに永遠の命を与えることを神は願っておられます。このことを片時も忘れてはなりません。このことが抜け落ちてしまいますと、信仰生活そのものが苦行になってきます。礼拝や奉仕が重荷や苦痛となってきます。せっかくキリストが私たちを解放してくださったのに、私たちは自分を縛るようなことになってはいけません。
 神の善き御心が自分に働いていることを受け止めたいのです。キリストと結び合わされているところで、私たちの信仰は安定していきます。教会生活と言っても、必ずしも良いことばかりではないでしょう。試練と言わざるを得ないこともあるのです。そのような時にも、神の善き御心を受け止めていれば、揺れることはあっても倒れることはありません。私たちが神のものとされていることを、しっかり受け止めたいのです。
 今日の御言葉の頂点となるのは、キリストが最後に言われた言葉です。「神のものは神に返しなさい。」神のものとは何か。神にお返しするとはどういうことか。これらのことが明らかになるのを願って、御言葉に聞いていくことにします。
 キリストは今、神殿の境内におられます。たとえ話を用いて、神の国について語られました。キリストは集まっていた人々を教えつつ、サンへドリンに属する長老、祭司長、律法学者たちに悔い改めを迫られたのでした。しかし権力を与えられた人々は、幼子のようになることができませんでした。かえって、キリストへの反発を強めるのでした。そのためキリストを陥れようと、彼らは口を開きます。
 キリストに敵対する人々ですが、サンへドリンから少し変化しています。今日の箇所では、ファリサイ派とヘロデ派です。ファリサイ派は律法学者と重なります。今回は彼らにヘロデ派が加わっています。
 ヘロデ派とは、ガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスを支持する人々です。信仰的な人々というよりは、政治的な人々と言えます。ヘロデ派とファリサイ派ですが、本来は対立している人々です。
 ヘロデの父ですが、元を辿れば生粋のユダヤ人ではありません。ローマの権力にうまく取り入り、イスラエルの権力者に収まった人です。その息子、ヘロデ・アンティパスも、ローマという異邦人とも賢く付き合う政治的な人です。そのヘロデを支持するのでヘロデ派です。
 一方のファリサイ派は熱心なユダヤ教徒です。イスラエルがローマに実効支配されていることを苦々しく思っています。当然、異邦人を嫌いますし、徴税人のような人を見下します。徴税人はローマの権力を傘にきて、人々から税を集めていたからです。当然、ヘロデ派のような人々ともソリが会いません。ところが、信仰的に思想的に相容れない彼らが、キリストに敵対するところで一致するのです。
 彼らはキリストを罠にかけるために尋ねます。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
 このように尋ねるファリサイ派とヘロデ派ですが、それぞれ違う答えを持っていました。ファリサイ派は反ローマ帝国です。ローマ皇帝に税金を納めることを快く思っていません。一方のヘロデ派は、皇帝に税金を納めるのは結構なことだと思っています。ローマが栄えれば、そのおこぼれに与かることができるからです。
 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と問いかけながら、自分たちの中ではそれぞれに答えを持っています。しかも、その答えは互いに相入れないものです。それなのに、一緒になってキリストに問うているのです。
 そこでキリストは言われます。:18「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。」自分達の心は決まっているのに、ワナをかけるために質問しています。それをキリストは「偽善者たち」と言われたのです。では、彼らの悪意とはなんでしょうか。それは、キリストがどのように答えたとしても、キリストに一撃を喰らわすことができると考えていることです。
 もしもキリストが、ファリサイ派に肩入れして答えたらどうなるでしょう。「ローマに税を納めることは律法に適っていない」と答えたとします。その時には、ヘロデ派の人々がいきりたつに違いないのです。「あなたはローマ皇帝の権力に楯突くつもりなのか!」と訴えることができるのです。イスラエルはローマに支配されているのですから、キリストは権力に逆らう反逆者として訴えられてしまいます。
 それでは、キリストがローマの権力を恐れて「ローマが支配しているのだから、納めれば良いではないか」と答えたらどうでしょう。ローマに従うように教えることは、ユダヤの民衆の反感を買うことになります。今までキリストは、真理に基づいて神の国を教えてこられました。誰をもはばからず、罪人と呼ばれる人とも親しく関わってくださいました。その御方が、いざとなったらローマの権力を恐れたとあっては、人々の失望はいかばかりでしょうか。
 キリストは先ほどまで、神殿の境内で教えておられました。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」と言えば、神を礼拝するために巡礼に来ている、熱心なユダヤ教の信仰者たちを裏切るようなことにもなります。もちろん、弟子たちの失望も大きいでしょう。そのようなことになれば、ファリサイ派は鬼の首でも取ったような勢いで、キリストを責めることでしょう。このように、キリストに答える余地を与えない言葉のワナを仕掛けたのでした。
 キリストはどうされたでしょうか。もう一度:18です。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。」これは、ファリサイ派、ヘロデ派に対する怒りを含んだ言葉です。そして、それだけではありません。彼らに対するキリストの嘆きです。「どうして私をワナにかけようとするのか。どうして自分の救いのために、真面目になれないのか。」キリストの深い悲しみを思わされます。
 しかしキリストは、嘆いてばかりもいられません。キリストは真摯に彼らに向き合われます。:19「税金に納めるお金を見せなさい。」今日ここで問題になっているのは、皇帝に税金を納めるべきか否か、です。ローマに納める税金ですが、それはローマの貨幣で支払われました。ですから「税金に納めるお金を見せなさい」とキリストはお求めになりました。キリストご自身は、「税金に納めるお金」を持っておられなかったからです。
 キリストの求めに対して、彼らはデナリオン銀貨を持ってきました。そこでキリストは言われます。「これは、だれの肖像と銘か」彼らは答えます。「皇帝のものです。」そうです。デナリオン銀貨には、ローマ皇帝の肖像がレリーフされていました。そして「神とされたアウグストゥスの子、皇帝ティベリウス・アウグストゥス」と刻まれていたのです。
 税金として納めるお金には、皇帝の名前が記されています。「それなら、その銀貨は皇帝に支払ってやれば良いではないか」とキリストは言われます。キリストはそのような銀貨を持っておられませんが、ファリサイ派、ヘロデ派の人々は持っているのです。皇帝に税を納めることを嫌うファリサイ派でも、デナリオン銀貨を持っているのです。しかし、キリストは持っておられません。
 キリストにすれば、「あなた方が口先で何と言おうとも、自分たちの生き様が物語っているではないか」と仰りたいところです。ローマの権力を恐れているのはキリストではありません。キリストをワナにかけようとした人々の方なのです。
 「皇帝のものは皇帝に」と言われただけなら、皮肉混じりの反論で終わったことでしょう。これだけでも十分、敵対する人々を黙らせることができました。しかしそれでは、必ずしも神の御心を十分に表すことにはなりませんでした。神はあくまでも、私たちを神の国へと招いておられるからです。キリストは、神の国を真理に基づいて宣べ伝えておられます。
 ですからキリストは「神のものは神に返しなさい」と言われます。皇帝の名前が刻まれた銀貨は皇帝に返すように言われました。そうであれば、神の名前が刻まれたものは、神に返すべきだということです。神の名前はどこに刻まれているのでしょうか。
 そのことが示されていると思い、イザヤ書を読みました。イザヤ書49:16「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。」よくよく考えるとひっくり返ってますので、間違った引用をしてしまいました。私たちに神の名前が刻まれているのではなく、神の御手に私たちの名前が刻まれているのでした。ともあれ、私たちは神のものとされています。ですから、私たちは自分自身を神に返す必要があります。
 ここで改めて、旧約聖書から引用しておきます。創世記1:27「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」私たちはまさに、神の象にしたがって創造されました。私たちという存在には、made in Kingdom、made in Heavenと刻印がされています。もちろん、私たちの創造主は父、子、聖霊なる神です。私たちが神のものとされていること。これは揺るぎない真理です。このことがハッキリしてきますと、私たちの信仰生活、私たちの人生のあり方が定まってきます。
 では、神のものである私たちを神に返すとはどういうことでしょうか。単純なことです。自分が神に創られ、愛されていると受け止めることです。神のいます神の国へと、やがて帰って行くことを信じることです。
 今日は主の晩餐が備えられています。主の晩餐は、神の国でキリストと共に与かる食卓の象りです。私たちは地上にありますが、聖餐としてぶどうジュースを頂く時、天上におられるキリストと共に飲んでいます。私たちは地上にありますが、神の国における祝宴に与っています。まだ聖餐に与からない方々にも、キリストの招きは及んでいます。なぜなら、あなたは神のものであるとの御言葉を聴いたからです。私たちは礼拝によって、神のものとしてすでに聖別されています。私たちが神のものとされている。このことを素直に受け止めましょう。

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