2026年9月20日 礼拝説教 「愛さずにいられない」
旧約聖書 ホセア書 3章1~3節
新約聖書 マタイによる福音書 22章34~40節
説教題 「愛さずにいられない」
説教者 後登雅博 牧師
音声のみもあります
マタイ22:34〜40 「愛さずにいられない」 ホセア書3:1〜3 2026.9.20
今日の場面も、キリストと敵対する人々との討論です。:34「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。」ファリサイ派とサドカイ派は、普段から対立しているグループです。サドカイ派が復活は無いという立場でキリストに議論を仕掛けました。しかしサドカイ派は、キリストの言葉に打ちのめされてしまいました。ファリサイ派にしてみれば、してやったりというところでしょう。
とはいえファリサイ派も、ローマ皇帝に税金を納めることの是非を問うてキリストを罠にかけようとして失敗しています。それでもファリサイ派は懲りずに、キリストに神学論争を持ちかけます。:35、36「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』」今度の主題は律法です。
ここで少し、頭の片隅に入れておきたいことがあります。今日の出来事はマルコによる福音書も記録していることです。そしてマルコの場合、かなり状況が違うということです。マルコによる福音書12:28です。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』」キリストを試そうとして、律法の中でどれが第一のものでしょうかと尋ねたのではありません。むしろ逆です。キリストがファリサイ派やサドカイ派を論破されたのを見て、素直に感心したのです。そしてキリストから教えを乞うために素直に尋ねたのでした。
キリストは言われます。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29〜31)。質問した学者は、キリストの答えを聞いて的確に応答します。するとキリストは言われたのです。マルコによる福音書12:34です。「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」
マルコによる福音書とマタイによる福音書では、同じ場面なのにかなり状況の違うことが分かります。マルコの方が、実際の出来事を正確に記録していると思われます。正直に言えば、今日の出来事はマルコによる福音書に則して説教する方が良いような気さえします。しかしながら、私たちはマタイによる福音書を読んでいます。ですから、マタイの記述に従って神が語られることを聞きましょう。
最初に戻りますが、今日はキリストを試すために、律法が取り上げられました。律法の中でどの掟が最も重要であるかというのです。律法について問われて、キリストは愛することが最も重要だと言われました。律法の問題が、愛するという答えに置き換わったのです。もうこれだけで、キリストの答えに唸ってしまうところです。
「律法」という単語を聞けば、私たちを縛るもの、罪に定めるもの、命を与えることはできないもの、というようなイメージを持つのではないでしょうか。私たちは、律法と福音を対立的に捉える傾向があるからです。それでも、改革派教会におきましては「律法と福音」とは言わず、「福音と律法」という順序で言います。福音が先にあるのです。すなわち、イエス・キリストにおける神の救いが先にあります。キリストによって救われた私たちは神の掟、律法に従って生きる、と改革派教会では考えます。感謝の応答として、神の掟に従う生活があります。律法の束縛から自由になって福音に生きる、というのではありません。救いを得たので、積極的に神に従って生きるのです。
ともあれ、兎角律法というのは掟でありルールですから、法の番人のような顔をして、人を監視するようなイメージがあるのです。今日の場面はまさにイエス・キリストが地上におられた時代のことです。いわゆるユダヤ教の律法理解の中で人々が暮らしています。律法といえば、自分たちが守るべき生活の規範、逸脱してはならないルールとしてイスラエルの人々を縛っていました。私たちが律法と言えば、例えば十戒を思い出します。しかしユダヤの律法には、613もの掟があったのでした。
律法が私たちを縛ると言いました。律法が掟である以上、「〜してはならない」という禁止命令と「〜しなさい」という積極的命令があります。ルールそのものは必要なことです。例えば、どのようなスポーツにもルールがあります。プレーする人が共通のルールのもとで競い合うことで、スポーツは公正に成立します。神の掟もそうです。
本来神の掟は、神の民として正しく生きるためのルールとして定められました。神のルールに則って生活すれば、正しく点数が入るのです。ただそれが、人間があれこれこねくり回して、ルールを作り変えてしまいました。ついには、613もの掟となってしまいました。こうなってきますと、神の民が生きるための神の掟が、人々を縛りつける人間のルールに変わってしまいます。
神の律法本来の働きは、私たちに命を与えることです。しかし、人が戒めを歪めてしまいました。いや、人間の手によって歪められたというだけではありません。十戒、わずか十の戒めでさえ、私たちは完全に守ることができないからです。
それでは私たちは、十戒を唱えるたびに、私たちの罪深さ、掟を守りきれない弱さを嘆くのでしょうか。そうではありません。十戒を与えてくださった神の御心に想いを馳せて、神に感謝するのです。
律法を守れるかどうかが小さなことだと考えるのではありません。守れるかどうかで言えば、完全には守れない我が身を思うのです。でもそのような私たちを、神は決して諦めることなく、何度でも神の戒めに生きよ、神の愛に生きよと励ましておられます。
キリストは神を愛することと隣人を愛することとが、最も重要な掟であると言われます。二つの掟が言われています。また、第一、第二と言われるので順序があります。しかしこれら二つの愛は、一つであると考えるのが良いのです。神を愛することが先にありますが、二つに分けてはならないのです。神を愛するなら、人も愛するのが律法です。キリストは、神が求めておられるのは愛するという一つのことである、と考えておられます。そして、人を愛したとしても、神を愛することがないとしたら、その愛は律法の求めていることではありません。完全な愛ではない、ということになるのです。
「愛する」という表現は大変美しい表現ですが、それだけに実際は難しいことを思います。神への愛と人への愛が一つとなって、完全な愛であると言われているからです。自分の中に、そのような完全な愛があるだろうかと考えますと、途端に怪しい気がしてくるのです。やはり、神の戒めを守るのは難しいと思わされます。愛するということは、単なる気持ちや感情の動きではなく、「愛するように努める」という意思の働きだからです。
このように考えてくると、キリストこそはまことに神を愛し、人を愛された御方であると思わされます。キリストの愛は神の御心を求め、御心に従うものでした。キリストは父なる神の御心に従い、神の御座を離れて、人としてこの地上に来られました。そして、自らを十字架にかけられたのです。神の御心が、私たちの罪を裁き、そうして私たちの罪を赦すことにあったからです。
キリストは私たちを愛して、私たちのためにその命を散らされたのです。誰が、愛してもいない者のために自ら進んで命を捨てるようなことがあるでしょう。
イエス・キリストは神と人を愛し、愛するが故に命をかけてくださいました。神は、私たちも神と人とを愛するようにと求めておられます。そこで、私たちに「愛する」という掟を与えられました。
「愛するように」という掟をお与えになった神は、私たちに愛を要求するだけの神ではありません。神は私たちを愛してくださいます。神はどのように、私たちを愛してくださるのでしょうか。そのことが示されていると思い、今日はホセア書から引用しました。ホセア書3:1「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』」神は私たちを愛しておられます。しかし人は、神に愛されながらも、神の愛に気づきません。そうして、神から離れてしまい、神ならぬものを慕います。それでも神はなおも、その私たちを愛すると言われます。そして、神ならぬものに絡め取られてしまっている私たちを買い戻してくださいます。そのために犠牲を払うことを惜しいと思われません。私たちを買い戻すために支払われたのが、イエス・キリストの命です。こうして、「わたしの元に留まっているように」と言われます。「愛する」という掟を与える神は、愛の神です。神の愛は生きて働きます。御自身の御心が果たされるまで、留まることを知りません。
キリストにおいて救いの御業を果たされた神は、「わたしはあなたを愛する。わたしの元にとどまれ」と今も語り続けておられます。神が愛であるからこそ、私たちにも愛するようにと求めておられるのです。
そしてこの神の愛、キリストの愛を深く知ったならば、私たちも愛さずにいられなくなるのです。その時もはや、「神と人とを愛するように」との神の掟は、私たちを縛るものではなく、私たちに喜びを与える掟となるのです。神に愛されている者として、私たちは神と人とを愛さずにいられないのです。