2026年5月31日(春の特別礼拝)礼拝説教 「私に必要なこと」
旧約聖書 詩編 103編1~5節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章1~11節
説教題 「私に必要なこと」
説教者 後登雅博 牧師
ローマ8:1〜11 「私に必要なこと」 詩編103:1〜5 2026.5.31 春の特別礼拝
本日は春の特別礼拝です。今日の説教のタイトルを「私に必要なこと」としました。皆様が今、自分に必要だと思っておられることはなんでしょうか。今からマイクを回しまして、お一人お一人にお聞きしたいぐらいです。もっとも、マイクが回ってきても「私に必要なことはこれです!」とはっきりお答えになる方は少ないのではないか、とも想像いたします。と言いますのも、自分が何を必要としているかよく分からない、という方がいらっしゃると思うからです。そして、自分が必要としているものが分かっていても、それを人前で言うのは恥ずかしい、という方もいらっしゃると思うからです。
「私に必要なこと」とは、今の自分が持っていないもののはずです。すでに持っていれば、必要とするはずがないからです。自分が必要としていること。それはつまり、自分に欠けているものと言えます。「私にはこれが欠けています」と明らかにするのは、少々勇気のいることです。本当は隠しておきたいことを曝け出すことになるかもしれないからです。
かく言う私も、自分に必要なことが何か、この場ではなかなか申し上げにくいです。ここでします説教はインターネットで配信されます。ネット上で自分の恥ずかしい話をするわけにもいきません。とまあ、人それぞれ何かしら自分自身に課題を持っているものです。様々な弱さや欠けたるところを抱えながら、人は生きているものです。そういう自分自身を思いつつも、健やかに生きるために、聖書の語ることに耳を傾けてみましょう。
さて、「私に必要なこと」と言われて、皆様が何とお答えになるか私には分かりません。しかし恐らく、聖書が語る必要なことは、あなたが考えておられることとは違うように思います。いや、神が願っておられることは、皆様が幸いな人生を送られることです。そして皆様が必要と感じておられること。それはきっと、自分の人生をより良くしてくれるものに違いありません。そうであれば、あなたの願っておられることと神が願っておられることが一致する、と言って良いはずです。神と私たちと、目指すところはほぼ同じです。ただ、そのための方向というか、考え方が少々違っているだろう、ということはあります。
神が願う私たちの幸いですが、先ほど読みました詩編には次のように書いてありました。詩編103:3〜5「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。」神は私たちが、良いもので満ち足りるようにしてくださいます。その究極と言うべきが、罪の赦しと墓から蘇る命です。
罪の赦しと言われても、あまりピンとこないかもしれません。なぜなら、あまり後ろめたい人生を歩んで来られなかったからです。恐らく、法律に背くような犯罪は犯してこなかったはずです。自分がそれほど悪い人間ではないのですから、罪が赦されると言われても有り難みがあまりないかもしれません。それでも申し上げたいのです。神が私たちに必要と考えておられるのは、罪の赦しです。それは墓から命が蘇ることと結びついているからです。
ここで新約聖書の言葉に移りましょう。ローマの信徒への手紙8:1「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」キリストに結ばれる時、その人が罪に定められることはありません。すなわち、その人の命は必ず死から蘇ることになります。
先ほども申しましたが、罪の赦しと命が死から蘇ることとは結びついています。つまり、罪が死をもたらします。逆に言えば、罪が取り除かれれば、死を免れることができます。そもそもで言えば、神は私たちが死ぬことを願っていないと言えます。
しかしながら、現実に人は死の時を迎えます。命あるものには終わりの時がきます。これを私たちは、当たり前として受け止めていることでしょう。では、終わりのあることは当たり前なので、仕方のないことと受け止めておけば良いのでしょうか。つまり、死とは避け難いことであり、乗り越えられないことと弁えておくべきでしょうか。もしもそうなら、決して神が願っていることではありません。すなわち、神が私たちに必要であると考えていることとは違ってくるからです。そして私たちとしても、本当は神の思いと同じはずなのです。
お一人お一人が、自分に欠けているものを見つめる時、これがあれば私の人生はもっと豊かになると考えておられるものがあります。その必要が満たされたとします。幸いな人生を送ることができるようになったとします。その幸いな人生の終着点はどこになるでしょうか。満ち足りて、墓に納まることでしょうか。
いや、満ち足りた人生を送れたならば、その最後が墓の中であったとしても、それほど不満はないかもしれません。これは、お一人お一人がお考えになって、受け止めてくだされば良いことかもしれません。私の人生の最後が墓であるとしても、それほど悪くはないのかもしれません。
しかし、教会で信じる神は、生きておられる神です。すなわち、私たちに命を与える神です。私たちが幸いな人生を送ることはもとより、私たちの命が死を見ないことこそ、神は願っておられます。人は確かに死を迎えますが、それが神の願うことではありません。墓を超えて、死を超えて生きる命を与えることができるのが、イエス・キリストの父なる神だからです。そして、死んでも生きる命。これこそ「私に必要なこと」です。そのような命のあることを知り、その命が与えられると信じる時に、真実に幸いな人生を生きることができます。
ところで、キリスト教で言う幸いな人生とは、皆様が考える豊かな人生とは、少し違うところがあるかもしれません。と言いますのは、自分がお金や健康、才能などに恵まれて生きることを幸いな人生と言わないからです。いやもちろん、そのような人生が送れるに越したことはありませんし、そのような人生が幸いであるのは言うまでもありません。
しかし、イエス・キリストを信じ、神が与えてくださる命を生きる時には、自分が考えるような幸いに恵まれなくても、喜んで生きることができるのです。自分が願うものが揃っていない人生でも、感謝して生きるようになるからです。もう少しハッキリ言いましょう。たとえ、自分の思い通りにならない人生であったとしても、それを神から与えられたものとして、素直に受け止めて生きるようになるからです。
:5、6「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」「霊に従って歩む」とは、神を信じて神の命を生きることです。「肉に従って歩む」とは、その反対と考えてください。つまり、神無しに生きることです。
神無しに生きるとは、神の力や助けを求めない生き方です。ある意味、自立した生き方と言って良いでしょう。神無しの自立した生き方ですから、自分の力、自分の考え、自分の能力を頼りとすることです。それはもちろん、立派な生き方と言って良いのです。その場合、自分が中心となりますから、自分が考える人生の幸いというものがあります。自分の能力を遺憾なく発揮して、この世で立派な功績を上げることもできます。それでも、その幸いな人生の行き着くところは「肉に従って歩む」人生ですから、「肉の思いは死であり」となってしまいます。人間の力による人生ですから、人の力を超えて生きるようにはいきません。
肉に従わず「霊に従って」、神を信じて生きる時に「命と平和」と言われます。この「命」は、死を超える命です。「平和」とは、それこそ何も欠けたことが無い状態のことを言います。いわゆる争いがない状態のことも言うのですが、意味としては円満であること、満たされていることです。あるがままの状態に満足していることです。
ところで、神を信じていても人間ですから、肉体は終わりを迎えます。キリストを信じても、全く罪を犯さなくなるのではないからです。そのことが:10で言われています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」
キリストを信じても、私たちの身体は死を迎えます。それでも、神の霊の働きによって、やはり命に蘇ります。罪ある身体でさえも、イエス・キリストの故に義なる身体、すなわち義しいもの、聖なるものに変えられます。このことをキリストになぞらえて、もう少し説明しています。それが:11です。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
皆様も、キリストが十字架に架けられたことをきっとご存知のはずです。十字架でイエス・キリストは死なれました。なぜなら、私たちの身代わりとなって罪を背負わされたからです。罪の力は死なのです。それが、十字架に架けられたキリストは、三日目に復活されたのです。キリストが十字架にかかったのは私の身代わりであり、そのキリストが復活されたと信じる時、私たちもキリストのようになります。すなわち、私たちが死を迎えても、命に蘇るのです。
ほんの二週間前、私たちはここでイエス・キリストを信じる姉妹の葬儀式を行いました。93歳になっておられたその方は、本当に皆さんに愛されていましたし、教会の皆さんを愛しておられました。ここ数年はずっと車椅子の生活でしたし、すっかり耳が聞こえなくなっておられました。目はよく見えていたと思いますが、全く耳が聞こえません。ですから、みんなが話しかけても何を言われているか分かりません。どうしてもコミュニケーションに不都合があります。それでも、本当に喜んで教会に来られていました。耳が聞こえませんし、体も思うように動きません。そう言う意味では、自分の必要が満たされているとは言い難い状態です。しかし身体的には不自由でも、心はとても自由でした。というか、本当に喜んで生活しておられました。どうしてでしょうか。神に愛されていることを知っておられたからです。「私に必要なこと」と言えば、神の御名を呼ぶこと、教会に来ることだったからです。ご自身の一番必要としておられるものが、取り上げられることがなかったので、最期まで喜んで生きられました。
私たちに必要なこと。それは神に愛されていると知ることです。神の愛に生きる時、様々な必要に欠けることがあったとしても、最も大切なものを与えられて生きることができるのです。神の愛を知り、喜びに生きること。これこそ「私たちに必要なこと」です。