2026年8月2日 礼拝説教 「天からの権威によって」
旧約聖書 イザヤ書 42章1~4節
新約聖書 マタイによる福音書 21章23~27節
説教題 「天からの権威によって」
説教者 後登雅博 牧師
音声ファイルのみ
マタイ21:23〜27 「天からの権威によって」 イザヤ書42:1〜4 2026.8.2
先週は雀のお宿でジュニアサマーキャンプを行いました。体調を崩した子どもがいましたが、大きな事故も怪我もなく無事に終わりました。子どもたちと楽しく過ごしてきました。「天の国は子どものような者たちのものである」とイエス様は言ってくださいました。キャンプでは、自分も子どものような者に成ってきました。
イエス・キリストは、子どものような者になって神の国に入ると言ってくださいます。最近の世界を見ていると、子どものようになる、小さな者である、弱いものであることはあまり歓迎されないように感じます。権力や武力を用いる為政者が、もてはやされているように感じます。小さな者、弱い者が顧みられない世界は、およそ神の国から遠いように思います。
人が権力や権威を持つとするなら、それはあくまでも神によって委ねられていることを弁えていなければなりません。ローマの信徒への手紙13:1「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」ローマの信徒への手紙が権威者に従うように言うのは、神にこそまことの権威があるからです。私たちは権威者に従わなければなりませんが、それは権威ある者が神を恐れ敬う限りにおいてのことです。まことに権威ある方はいかなる御方でしょうか。御言葉から聞き取りたいと願います。
イエス・キリストが神殿の境内で教えておられます。どのような人が神の国に入るのか。神が願っておられることは何か。キリストがどうしてこのエルサレムまで来られたのか。そのようなことを教えておられたのでしょう。
するとそこへ祭司長や民の長老たちがやってきました。マタイは書きませんでしたが、一緒に律法学者も来たようです。祭司、長老、律法学者とは、サンへドリンというユダヤの最高会議を構成する人たちです。国会のようなものをイメージしていただけば良いでしょう。権威ある人々です。
サンへドリンのメンバーが来て、キリストに言うのです。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」自分たちの支配領域である神殿にキリストが入ってこられました。彼らは自分たちこそが権威ある者と思っています。ですから、なぜこのようなことができるのか、と尋問します。サンへドリンが問うているのは「権威について」です。これは単純な質問ではなく、取り調べと言っても良いような、厳しい態度の問いかけです。
サンへドリンが気に食わなかったのは、キリストが神について教えておられたからでしょう。言い換えますと、自分たちこそが神について正しく教えることができる。自分たちにしか、神を語る資格も権威も能力もない、と考えているのです。
ですから、キリストが教えておられる内容とその資格、権威が問題となっています。しかし、それだけではないでしょう。何しろキリストは、境内で大暴れされたからです。神殿の境内で商売をしていた両替人や鳩を売る人たちを追い出されました。そのことも含めて、「どうしてそのようなことができるのか!」と尋問しています。
ここで改めて、権威ということを考えてみます。キリストは教えておられました。例えば学校の先生が勉強を教えることができるのは、教員としての権威と資格が与えられているからです。「この人はしかるべき学びを積んだので、教員であると認めます。」そのような認定を受けて、初めて教えることができます。それで言えば、牧師も同じです。しかるべき勉強を終えて、いくつかの試験にも合格して、教会から招聘されて、そうして初めて牧師となります。牧師も教師も、この人には資格があります、権威があります、と認めてもらえて初めて働くことができます。
祭司長たちは、イエス様にそのような権威があるか、誰がそのような権威を与えたか、と問います。そして、「少なくとも自分たちはそのような権威を与えていないぞ」というわけです。自分たちこそイスラエルの最高会議だからです。自分たちの権威によらなければ、なに人といえども神殿で教えることなどできないのです。そもそも、両替人たちを追い出すことが許されるはずもない、と息巻いているのです。
キリストは問われたので、答えておられます。:24、25「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」キリストに問われた祭司長たちは、正しく答えることができませんでした。キリストの答えは、尋問してきた人々を黙らせるために有効な答えでした。
ここで考えてみたいのです。キリストはどうして、このような問いかけをなさったのでしょうか。尋問してくる祭司長たちをやり込めるためでしょうか。それとも、御自身の権威について明らかにしたくなかったからでしょうか。
私は、そのような消極的な理由ではないと思っています。まず、御自身の権威について明らかにしたくなかったというのは違うでしょう。復活された後のキリストですが、弟子たちに向かって言われます。マタイによる福音書28:18「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」
「権能」となっていますが、ギリシア語では今日の箇所の「権威」と同じ単語です。復活後のことであり、弟子たちに語られますから今日の箇所とは状況が違います。しかしそれでも、キリストが御自身の権威について語っておられます。キリストの権威は天と地の一切に及びます。そのような権威を与えることができるのは、天地の創り主なる神以外にありません。そして、そのような権威を受けるキリストもまた、創造主なる神に並ぶ御方であるのは言うまでもありません。このことを弟子たちに対してですが、明らかにしておられます。ということで、キリストは御自身の権威が誰から与えられたのか、隠そうとしておられるのではありません。
キリストは、子どものような者にならなければ神の国に入ることはできない、と言われました。そのようにおっしゃる方は、やはり子どものような者であるはずです。つまり、人を陥れてやろうとか、やり込めてやろうとか、姑息なことを考えるはずがありません。むしろ心から、祭司長たちにも子どものようになって、神の国に入ってもらいたいと願っておられます。ですから、:25で言われたことに対して、子どものようになって答えることができたら、神の国の門が大きく開いたはずなのです。もう一度:25です。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
祭司長たちには、この問いかけに対する答えが分かっています。:25後半「彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。」「ヨハネの洗礼は天からのものでした」と答えれば良かったのです。洗礼者ヨハネが神から遣わされた人だと認めれば良かったのです。素直に答えることができたら、神の国に入れるのです。しかし、祭司長たちにはそれができませんでした。自分たちの権威が否定されるような気がしたのでしょう。サンへドリンから権威を委ねられていないヨハネが、神について教えたことが許せなかったからです。今日の箇所と同じようなことです。
サンへドリンのメンバーは、自分たちこそが神に仕える者たちと自負しています。それなのに、神から遣わされたヨハネのことが受け入れられません。そうであれば尚のこと、キリストが神であるなどとは受け入れられません。
そこで祭司長たちは「分からない」と答えました。本当に分からないのではありません。答えるべき答えが分かっていながら、誤魔化しただけです。どうしてですか、自分たちの権威が脅かされると思ったからです。ヨハネを天からと認めるのは、ヨハネを自分たちよりも優れた者と認めることになります。それでは、サンへドリンの権威が損なわれてしまいます。「人からのものだ」と言えば、人々から反発されます。それでは、自分たちが築いてきた権威が蔑ろにされるような気になります。祭司長たちは、どうしても子どものような者になることができず、ずるい大人の答え方をしました。祭司長たちの答えは、典型的な権力者の答弁となってしまいました。私には祭司長たちの姿が、現代の為政者たちの姿と重なって見えてしまいます。
今日の対話は、キリストがサンへドリンをやり込めた形になってしまいました。そのためこの箇所は、キリストが見事に勝利を収められたように見えます。「さすがはイエス様だ、この世の権威をものともされない」みたいに思ってしまいます。
しかし戻りますが、キリストは彼らをやり込めるために、ヨハネのことを問われたのでしょうか。確かに、祭司長たちにはなんとも答えることができず、彼らがやり込められることとなってしまいました。しかしそれは、祭司長たちが自ら招いてしまったことです。そしてそれは、キリストが願っておられたことではありません。
それが証拠に、イエス・キリストはまだ祭司長たちへの語りかけをやめておられません。この後キリストは、彼らに向かって二つの例え話をされます。「二人の息子のたとえ」と「ぶどう園と農夫のたとえ」です。これらの例え話は、次の主日に読んでいきます。
さて、今日のテーマは権威でした。それはつまり、イエス・キリストのことをあなたは何者だと考えますか、ということです。神としての権威を持つ御方と考えるでしょうか。それとも、社会の秩序を危うくする厄介者でしょうか。
イエス・キリストは天から来られた神の御子であると告白するなら、神の国の門が大きく開きます。救いを得るために必要なのはこの世の権威でもなく、力でもなく、知識でもありません。子どものようになって、キリストを受け入れることです。その時、私たちがこの世の権威や力に乏しかったとしても、少しも問題とはなりません。イエス・キリストの権威によって、私たちを神の民としてくださるからです。キリストは真実に私たちの救いを願い、天から降ってこられました。私たちのところまで来てくださったキリストを、子どものようになって受け入れてください。その人はもはや、この世の権威にも縛られることはありません。まことに権威のある御方に、結び合わされることになるからです。